君の流した涙はポロポロと
宙を伝い落ち、私の胸に染み込んでくるのに。
涙する君の目尻をこの指で拭うことも
背中を擦って宥めてやることさえも
私には許されない。
歯痒い日々に、歯痒かった私。
あの日。
ワトソンが泣いて鏡の中の事実を告げてくれて以来。
以前から私の中にあった思いがはっきりと形を現し始めていた。
ワトソンをあの鏡から解き放つことはできないだろうか。
それと同時に、私は彼に対して抱いていた想いも認知することにもなったのだが・・・
始めは興味本位だったのだろうが、些細なことで彼を知るうちにその考えは一変し、昇華したのだと己の胸に染み込む涙を見て思い知らされた。
考えの昇華───つまり、私が彼に抱いている想いは興味などとは程遠い、愛情だと。
もちろん否定を繰り返したが、結局深い考えの果てに同じ結果に辿り着いてしまっては、もう認めるしかないではないか。
そうして私の生涯において最も奇怪な難題に着手し、悶々とした思考を経て現在に至る。
あの鏡の出所を探ることにしたのだ。
鏡が作られた時代は、あの店で見たときからだいだい見当がついていた。
あの木彫の装飾はおそらく16世紀頃のもの・・・その当時の一般家庭にあんな立派な鏡があるはずもないから、最初の所有者は貴族。
あの店主に聞けばある程度は持ち主を遡れるかもしれない。
思い立つや否や、ワトソンに断りを入れて私は街へと刳り出した。
・・・ン、カランカラン・・・
「 おや、あなたは確か・・・ 」
「 憶えておいででしたか?お久しぶりですね 」
アンティーク屋の初老の店主は、ここで鏡を買ったあの日のように穏やかに迎えてくれた。
「 やはり、何かありましたかな? 」
心配そうに尋ねてくる店主に、ややあって手を振り否定する。
「 いいえ、今日訪ねて来たのはあの鏡に関してですが、返品希望ではありませんよ 」
あの鏡には、とても好くして貰ってるんです。
そう告げると店主はほうっ、としてにこやかに笑った。
「 そうですか、何も無くて良うございましたよ。して、鏡に関することとは・・・? 」
小首を傾げて尋ねて来た店主に私はただ用件だけを述べた。
「 あの鏡の元の持ち主を知りたいのです 」
それから案外簡単に元の持ち主に関して知ることができた。
というよりも最初の持ち主以来、持ち主と呼べるほど鏡を所有したものがいなかったのだ。
元の持ち主、つまりあの鏡の最初の所有者の名は。
ジョン=H=ワトソン───
そう、いまやその鏡自体に身を置くこととなった、彼自身だったのである。
予想通り、かつての彼は貴族であった。
調べてみれば彼の屋敷はまだ残っていたので足を運んでみた。
貴族の中でもそれなりに裕福な方だったにも関わらず、屋敷の作りは当時のものと比べると簡素なものだった。
屋敷も庭も結構な広さだった。庭は木々がほとんど森の形を残したまま、手付かずだった。
見れば庭師がいたので声をかけると、快く屋敷の案内を引き受けてくれた。
庭師はもう良い老人だった。ゆっくりとした足取りで私の前を歩く。
「 ここのお屋敷は当時のものにしては装飾が簡素ですね。庭も・・・あなたのような庭師がいるのに手付かずと言っていい。何故ですか? 」
すると庭師は、あのアンティーク屋の店主によく似た笑みを溢した。
「 このお屋敷を建てなさった主さんはたいそう人の好いお方だったそうで。庭の森も暮らしてる動物たちの為に手をつけなかったんだとか。あまり華美な装飾もお好みにならなかったようですよ。むしろありあまるお金は貧しい村の人たちに分け与えておったようですよ 」
彼らしい。
普段彼と接しているからよく分かる。彼ならきっとそうするだろうと。
「 ただ・・・その優しさがアダになってしまったようでねぇ・・・ 」
はふぅ、と重い溜め息を漏らしたのが気になって尋ねた。
「 どういうことですか・・・? 」
話は、こうだった。
ある日。
屋敷の主・・・ワトソンは道で瀕死の男を見つけた。
その男は余所者らしく、村人たちも知らなかった。
素性の知れない者に手を出すのは止した方が良いと心配する村人たちの忠告も聞かず、ワトソンはその男を介抱した。
日に日に男の容体は良くなっていき、男はワトソンの手厚い介抱に礼を言えるほどまでに回復した。
しかし、その男は隣の町では名の馳せた夜盗だったのだ。
動けるようになった夜盗の男はその本性を現した。
ワトソンの寝室に忍び込み、刃物を振りかざしたのだ。
あとは言わずとも知れたこと。
ワトソンは無残にも殺され、男は大して金目の物のない屋敷をさほど荒らすことなく去った。
「 ・・・主さんもかなり逃げ回ったようでしたが、最後は壁際に追い詰められたんでしょうな。壁に寄りかかるようにして座ったまま亡くなられておったそうです 」
「 鏡は・・・ 」
「 ? 」
私は唇が震えてしまって、ちゃんと話せているかも定かでなかった。
「 その壁に、鏡などはあったのでしょうか? 」
庭師は、ああ、と頷いて
「 主さんの血で、真っ赤に染まっとったそうですよ。主さんが援助しとった職人がおって、その職人が有名になったとき、援助のお礼として贈ってくれた鏡だとかで・・・主さんのお気に入りだったそうですよ 」
捨ててしまったのか、もう屋敷には残っておりませんがねぇ。
庭師の話が、頭のずうっと奥のほうで木魂のように響いている気がした。
これで私の、彼をあの鏡から解き放つという願いは叶わないことが明白になった。
予期していたことではあったが、やはり彼はすでにこの世に亡い人だった。
あの鏡を背に、不合の死を遂げたが故に彼の心だけが鏡に残ったのだ。
魔法が解ければハッピーエンド、などというおとぎ話のようにはいかないのだ。
彼にかけられた魔法があるとするならば、それは死による鏡への束縛───そしてその魔法が解かれてしまえば。
鏡という触媒を失ってしまえば、彼はあっけなく消えてしまうのだろう。
束縛は死で始まり、解放もまた死で終わる。
こんな悲しいことが、この世で、他にあるだろうか。
『 あ、おかえりホームズ・・・って、どうしたんだい? 顔色が悪いよ? 』
落胆を引きずって221Bに戻ると、帰ってきた私を見てワトソンが心配そうに近寄ってきた。
なんでもないと彼をやんわりとかわしてソファーにドサリと沈みこむ。
分かったことが多すぎた上に重過ぎたおかげで今は彼とさえも話したくはない。
『 休むのなら、ベッドの方が良くないかい? 本当に顔色が悪い・・・ 』
額にふわりとしたものを感じる。ワトソンが手でも添えて、熱がありやしないかと測っているのだろう。
ああ、人の気も知らないで・・・・・・
彼とは決して相容れられないのだという事実を知ったせいだろうか。
いつもならば大丈夫だと優しく告げられるであろう言葉を、苛立ちを持って素気なく言い返した。
「 放っておいてくれたまえ、ワトソン。なんでもないのだから 」
私の言葉の端にいつもと違うものを感じたのだろう。困惑を顔に表しながら、彼は歯切れ悪く尚も言い募った。
『 でも・・・具合悪くなくても、疲れてるみたいだし・・・・・・ 』
自分でもよくわからない苛々が募る。そろりと伸ばされた手の感触に、チリッと焼けるような感覚を覚えた。
私は彼の手を振り払うとでも言うように大きく腕を振り、起き上がった。
そして・・・あまりの苛々に触発されて、私は決して言ってはならぬことを彼に言い放ってしまった。
「 死人に心配されたくないね 」
言った私も、言われた彼も、この言葉を一瞬認識できなかった。
そうして私がそれを認識したころにはもう遅かった。
『 ・・・・・・ッ!!!!・・・ 』
いつもの色白で血色の良い彼の顔は瞬く間に蒼白になり、全身は怯えるように激しく震え始め─── 一瞬、私に向かって彷徨わせるように震える両の手を伸ばしたが束の間、彼は震えにもつれる足に転びそうになりながら、鏡に向かって走り出した。
「 ッ!!、待てッッ、ワトソン!! 」
手を伸ばしたところで何の意味もなかった。
私は彼に触れられないという事実を見せ付けるように、見えぬ影は鏡の中へと吸い込まれた。
ガラン!ガラン!ガランッ!!・・・
彼が勢いよく飛び込んだ為か、それとも彼の心の内を表してか───鏡が左右に、激しく揺れた。
そして。
ガラン、ガラン、ガラ・・・
ブツッ。
───ガシャン!!!!
鈍く紐の切れる音がした。
それは鏡を壁に繋ぎとめていたものであり。
続いたガラスが割れる音は、彼にとって魔法が解けたことを示し、私にとっては夢の終わりを意味していた。
「 ───ッワトソンッッ!!!! 」
私の彼の名を呼ぶ叫び声は、壊音に掻き消されていった・・・・・・
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はい、山場です☆
このシリーズで初めて納得のいく話が書けた・・・・・・
この回はもう妄想がしっかりまとまったからね!!
勝手に割れちゃいましたね、鏡。(笑)
てゆーか紐でかかってたんだ、あの鏡。(笑)
最初はワトソンに割らせようと思ってたのですが・・・・
いやーなかなかどうして。いいじゃありませんか♪(ムフ←自己満足/滅)
次回、バッドエンドかハッピーエンドか!!これ如何に!!(ベンベン♪/笑)
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