ああ、何故
忘れて、いたのだろう。
誰か入ってきた寝室/辛うじて避けた一撃。
月明かりに映し出された暴漢、それは。
自分が手を差し伸べた男であった。
茫然自失の状態のまま、壁に寄りかかる。
ガタンと背後で何かが音を立てた。
鏡─────・・・・
一瞬視線を後ろにやり、再び戻したと同時に。
煌めく白。
しろしろしろ。
ななめ。ななめななめななめ。
斜めに走って行った。
白い閃光が走った。
風かと思った(冷たかったんだ)
冷たい清水かと(冷たかったんだ)
雪かと(冷たかったんだ)
氷かと(冷たかったんだ)
ガラスの冷たさかと(ほんとうに冷たかったんだ)
────────思った。
一気に溢れかえって来た記憶に追いつけず、気づけば鏡の中へと飛び込んでいた。
すぐにその場にへたり込んでしまう。
立ってなんかいられなかった。
体中が震えて、痙攣して止まらなかった。
呼吸も儘ならなくて眩暈に襲われた。
『 ─────ッワトソンッ!!!! 』
突然耳に届いた叫びに驚いて目を見開く。
この世界では絶対に聞こえないものなのだということも忘れて振り返る。
その瞬間。
──────ガシャン!!!!
わたしの唯一の外界との出入り口が粉々に吹き飛んだ。
・・・・・・・!!
鏡のすぐ目の前にしゃがみ込んでいたわたしに向かって、砕け散った鏡の弾丸が矢のように飛んできた。
全身を射抜かれたような感覚に、わたしはそれきり気を失った。
ああ・・・・・・
幕を下ろしたのは私だ。彼は鏡の呪縛から解き放たれた。それは理上、正しいことだ。
ぱきん。
足元で、ガラス片の割れる音。
ゆっくりと、その一欠片を拾い上げる。
キラリと閃かせれば映るのは己の顔。
いまはただ、絶望と失望と後悔を讃える灰色の瞳があるだけだった。
ああ・・・・・・
ああ。
世界は断たれたのだ。
たとえ相容れられなくとも、私と彼が共に過ごしたあの世界はもうどこにもない。
たとえ。いいやそれでも思わずにはいられないだろう。
ああ、と。
ぱきん。
ぱきんぱきんぱきん。
ぱきんぱきんぱきんぱきんぱきん。
一足一足、踏み進めるごとに破片が泣いた。
ガタリと音を立てて、鏡の枠を持ち上げる。
カシャンカシャンカシャンカシャンカシャン・・・・・
鏡が組み込まれてあった部分から、名残欠片が滑り堕ちていった。
床に到達するとそれはさらに細かに砕け、飛び散る微塵はダイアモンド・ダストのように舞った。
美しい装飾を残すのみとなった木枠を見つめる。
もうそこに映し出されるものは何もない。
ふと、薔薇の装飾に目をやると点々と、何かが付着していた。
よく見なくとも、自然とそれが何かわかった。
これは血だ。ワトソンの・・・・・・。
深く彫り上げられたそれに付着した血を完璧に拭い去ることなどできなかったのだろう。
指でこびりついた彼の血を辿った───そのとき。
どさり。
背後で、妙に重く生々しい音がした。
私はゆっくり振り返る。
わずかの期待と、音からもたらされた絶望に心を揺らしながら。
私はゆっくり振り返る。
そう、至極普通に。心穏やかに。
私はゆっくり振り返る─────
周囲を取り巻くガラス片は彼を飾り立てていた。
陽の光をおもいきり煌めかせて、彼を栄やしていた。
だが、肝心の彼は。
「 ・・・・・ワトソン・・・ 」
彼の顔色は、死人のそれだった。
足元がしっかりしない。
フラフラと、彼の元へと歩み寄る。
抱き起こそうとした体はひどく重く、かなり力を入れて抱き上げなくてはならなかった。
そう、この重さは死人。死人のそれなのだ。
「 ワトソン───・・・・ 」
もう一度、彼の名を呼ぶ。愛しさを込めて。
彼の肉体はもう何百年も前に土に還っているはずで、ここにこうして現れるのは理屈に合わないはずだが、私は何とも思わなかった。
彼の頬を撫ぜる。色を失ってしまっているが、それは確かに、ずっとずっと触れたいと願っていたものだった。
茶色に少し灰色ががったクセのある猫っ毛な髪にも指を通す。ふわふわとしていて、思っていた以上の感触だった。
その頬も、髪も、細い手首も。
何もかもが自分が触れたいと、直接触れたいと願っていたもので。
ただ、悲しいのは。
あの茶水晶の、ときにエメラルドの光を放つあの瞳を見られないことと、彼の肉声を聞けないこと。
ねえ、ワトソン。
呼んでくれないか、ホームズと。
もう一度だけ。そう、今度はこの唇で、この耳だけに届くように。
何処にも漏れ響かないように。
指で彼の唇を辿っていく。
さっきと同じ、そう彼の血を辿ったように。
冷たくも柔らかな───その唇を辿った。
・・・・・・・・・・・・ふっ・・・・・・
「 ・・・・・・? ワト、ソン・・・・? 」
指先に、温かい息を感じたような気がしてハッとする。
気のせいだろうか? 今・・・息を・・・・・?
心なしか、さっきより顔色が良くなっているように感じる。
そう思って見るからだろうが。
「 ワトソン・・・!! ワトソン??!! 」
一旦そう思ってしまった私にできることといえば、ただひたすら彼の名を呼び続けることだけだった。
射抜かれたような先ほどの衝撃はもう感じなかった。
ただ、何かで固められてしまったかのように、体が全く動かせなかった。
重い・・・・・・・
どっしりと、体が重かった。
体内に鉛でも詰められたかというほどに腕も足も重く、目を開けることさえも出来なかった。
その重さは呼吸器系にも容赦なく襲い掛かってくる。すでに息をするのも億劫な状態だ。
・・・・・・苦しい・・・・・・・・・・
しつこく這い上がってくる苦しさから逃れようとして半ば意識を飛ばしかけたとき、ふわりと冷たい、けれど温かいものが自分に触れた。
それはなんとも不思議な気配で、だがわたしはそれを知っているような気がした。
それは自分の頬や髪、手に触れ───最後に唇を辿った。
───────ワトソン・・・・・
ふとわたしは、その気配がわたしの全身を包み込んでいることに気が付いた。
わたしを呼ぶ、声がきこえる。
ぽうっとしたまま、目を開けた。
必死に呼んでいた声も忘れて、なんの心の準備も無しに目を開けてしまっていた。
一度視線を落として、また上げた。すぐ近くに、ホームズの顔があった。
「 ・・・・ワトソン。」
信じられないと言わんばかりに目を見開いて、わたしの髪や頬を撫ぜてくる。
「 ワトソン・・・ワトソン、僕が、わかるかい? 」
ああ、くすぐったい。なんだかとても気恥ずかしい。触れられているだけなのに。
触れられるって・・・こういう感覚だったんだ・・・・・。
「 ホームズ・・・・ 」
にこっと笑ってそう言うと、彼もホッとしたように微笑み返した。そして急にすまなそうな顔をした。
「 さっきの失言・・・・すまなかったね。」
「 いいんだよ、ホームズ。それよりも・・・・・・夢みたいだ・・・・・。」
わたしは彼に触れられ。彼はわたしに触れている。
絶対に叶わない望みだと思っていた。
「 僕もだよ・・・・でも、これは紛れもなく現実だ。この感覚が・・・・・・。」
彼がわたしの手を取る。触れ合う感触は、確かにお互いの間で共有されていた。
「 うん・・・・夢見たいだけど、現実だ。・・・・・・だって。」
うん?と言いながらも彼の手は止まることがない。
「 体が・・・・すっごく重い・・・・・ 」
長いこと体らしい体を持っていなかったせいか、わたしはその重さをひしひしと感じていたのだ。
ホームズは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐにクスクスと笑い出した。
わたしをよりいっそう抱きしめて、首に顔を埋めてくる。
肩が揺れている。笑い止みそうにない。
ようやく顔を上げた彼は苦笑いを浮かべていて。
「 大丈夫、すぐ慣れるよ。」
そうしてわたしをソファーに座らせてくれた。あの出逢いの日、わたしが腰掛けていたソファー。
それを映し出していた虚構の世界は今、砕け散って目の前の床に散乱している。
小一時間もすればその欠片も跡形なく掃われることだろう。
もう、何にも隔てられることは無い。
独りと独りから二人へ。
「 ホームズ、どうにもならないと思うことでも結構なんとかなるものだね。」
「 実のところ、時間も世界の相違もたいした問題ではないかもしれないね。」
二人ならば。
そう付け加えられた言葉に破顔して。
現実に来て初めてのホームズへのお願いをする。
君が見てきたこの街を、君と一緒に見て歩きたい。
そう、まずは君と出逢った、あのアンティーク・ショップから、と。
END
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スイマセン・・・;
最後の最後にして、話に山場を作れなかったという大☆失態。
ううう・・・・この最終話の山場は静かに過ぎ去ったのです・・・・そう思ってください(T0T)
なんかイロイロ不明な点が残ってしまって消化不良しまくりですね・・・・
パラレルって難しい・・・・(涙)
まあ、要するに!!鏡は割れたのよ!!呪縛は解けたのよ!!
生きてるんです!!
・・・・・ダメじゃああん・・・・・・・・・・
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