ライヘンバッハの滝へ向かう道の岩壁。
物憂げに寄りかかった君の姿が、頭に焼き付いて離れなかった。
「 待ってくれ、モリアーティ。僕にほんの少しだけ、時間をくれないか。 」
岩壁に寄りかかりながら気だるそうに言ったのは探偵だった。
「 何? 」
問い返してきたのは初老の紳士―――犯罪界のナポレオン、モリアーティ教授だ。
「 ・・・親友宛てに手紙を書きたい。何せ、僕が君と対峙することを告げずに帰してしまったのでね。 」
肩を竦めて苦笑いして見せると、何を思ったのか、モリアーティもふっと微笑み、
「 ・・・好かろう。だが、手短に済ましてくれたまえよ。 」
「 感謝する。 」
ホームズは素早く手帳とペンを取り出すと、彼の親友―――ワトソンに宛てた短い手紙を書き始めた。
もしも、この教授との対峙で死んでしまったら彼とは金輪際、この世で逢うことはない。
勝って生き残れたとしても―――暫くは逢えないだろう。
あまねく残党が自分だけでなく、彼にまで害を為すかもしれないから。
だから。
―――だから、さようなら。僕の、親愛なるワトソン。
三ページにも渉る親友宛の手紙をまとめて一気に切り離すと岩の上にシガレット・ケースで押さえるようにして置いた。
万が一見過ごされては哀しいから、目印代わりにステッキも立て掛けて。
さあ行こうかと、教授に言われてその場をゆっくりと離れる。
行く手に広がるのは細い道。
暗く見えたのは、滝に続く道ならではのものだけでは無いように思えた。
細い細い道に一歩踏み込む前に、もう一度だけ後ろを振り返る。
さっきまで自分が寄りかかっていた岩壁と―――さらにその向こう、親友が下っていった山道が見えた。
彼はもう宿に着いただろうか。
僕の吐いた嘘に、気づいただろうか。
怒っているだろうか。
―――心配して、くれているだろうか。
僕が居なくなったら。
君は泣いてくれるだろうか。
泣いて、くれないか?
・・・君以外に、泣いてくれそうな人が思い浮かばないし、居ないんだよ、ワトソン。
こんな僕の身勝手な我侭を聞いたら、君はきっとすごく怒るんだろうね。
教授に気づかれないよう、クスリと笑って背を向ける。
細い細い道へと一歩踏み出してしまうと、もう二度と後ろを見遣ることは無かった。
思い馳せる彼の元へと帰るための道は、もう無い。
ワトソンは、下りる山道の途中で立ち止まり、深く考え込んでいた。
脳裏でリフレインするのは岩壁に物憂げに凭れ掛かった親友、ホームズの姿。
なんだか心がざわついて、落ち着かない。
そもそも、彼の様子は昨日から何処かしらおかしかった。
宿で夕食を終えて、くつろいでる間。
ワトソン、ワトソン。
優しく呼びかけられ、何かと思って近づくとそのまま腕を掴まれ、気づけばホームズの膝の上で抱かれていた。
いきなりどうしたのかと問えば、
ちょっと寒くてね。さすが、君は体温高いねぇ。
そう言って彼はわたしを強く抱きしめた。
・・・・・・にっこりと笑った顔が、綺麗に静かに微笑んだ、あの顔が忘れられない。
その後、結局離してもらえず、そのままベッドに担ぎこまれた。
いつも以上に優しく強く抱かれた後も、彼がわたしを離すことはなかった。
ずっとずっと、夜が明けるまで/夜が明けて、朝が白むまで。
不意に顔を上げ、山の頂を仰ぎ見る。
・・・やっぱり、引き返そう。
ホームズに怒られるかもしれないけれど。
何も無ければ無いで、それはそれで良い。
この不安を払拭できるなら。
うん、と一人で納得して頷くと、ワトソンは下ってきた道を再び登り始めた。
「 ―――ッッ!! 」
襟首を掴み、締め上げようとする手をなんとか払い落として間合いを取る。
しっとりと濡れた道はひどくぬかるみ、ホームズは慌てて足に力を入れて踏ん張った。
辺りは薄暗く、滝の流れ落ちる音がこれでもかというほどに辺りに響いていた。
それが自分の心音に同調して、腹部で鳴り響いているような錯覚を受ける。
細い細い道の上。
戻ることも進むこともできないまま、ロンドンの光と影が対峙していた。
「 まったく、さすがというか。君もしぶとい男だね。 」
ふう、と息を吐いて教授が少し乱れた衣服を正す。
「 それはお互いさまですね、教授。 」
ホームズも、すっと背を正す。
流れる沈黙/滝の流れ落ちる音だけが二人を包み込む。
双方、次でおそらく最後になるであろうことを感じていた。
どれほどの沈黙だっただろう。
先に動いたのは、モリアーティの方だった。
掴みかかってきた手をかわそうと、上体をひねったホームズだったが、素早く方向転換された手に捕まる。
「 くッッ・・・!! 」
ホームズは咄嗟に掴み返し、教授を引き剥がそうとする。
だが、今度ばかりは互いに一歩も譲ることはせず、掴み合ったまま細い細い道の上で取っ組み合った。
そう。
ここは細い細い道の上。
舞い上がる滝の飛沫に、土が乾くことは無い。
ほどよく湿ったそれに。
おもいきり足を取られたのは一体どちらだったのか――――
ガクンッと体が大きく揺れて。
そのあと、脳が浮遊するような感覚に襲われた。
顔に、体に。霧雨のような飛沫が当たって。
足に着く筈の地面の感覚は無い。
もう次の瞬間にはモリアーティから手は離していたし、彼も離していたけれど。
宙空に浮いた時点でのそれはもう意味が無く。
滝の轟音の中に教授の断末魔を聞いたような気もしたが。
自分の視界はただ、底無き滝つぼを見据えていた。
ああ―――やはり君の元へは帰れそうにないよ、ワトソン――――――
彼を残して逝くことが、残される彼が哀しくて。
すまない、と。
彼だけを想って、彼のことだけを考えていた。
だから。
「 ホームズ!!!! 」
落ちていく瞬間、聞こえた声は、見えた姿は。
自分の望んだ、都合の良い幻覚だろうと。
そう思うも、それにうっすら微笑みかけ意識を手放した。
最後に見えたのが、愛しい君の姿なら。
幻覚でもかまわない、と。
満たされた心のままに――――目を、閉じた。
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来たぜ小説第三弾!!
今回はライヘンバッハの滝をピックアップ。
相変わらずマイ・設定爆進中なんですが。
本人幸せなんで、善しとします(笑)
今回も犬でも人間でもどっちでもいーです。
でも自分的にはもう人間設定だよなあ、これって。
前の二作品も、そんな傾向あるんで、もおどーでもいいです(オイ;)
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