人生なんて別れの連続さ、
自分が死ぬのだって恐くはない。
嘯き笑う、強さの在る彼。
ときどき引き攣る、
眸は誰にも見せないで。
A
まさか、解らないって思ったんじゃなかろうな。
稀代の悪党は椅子に深く腰掛けて、煙草を咥えたままじっと見遣る。
眼の前で談話している部下たちの中、腹心の男。
この俺を欺こうなんて莫迦な話だ。ほら、唇が引き攣っている。
眼だってうろうろして、絶対俺が居る方向を見ようとしないんだ。
全く駄目だな、やれやれ胆が据わっていないよ。
おい、と彼が呼ぶ。
はい、と男が答える。
ざわめく眸、歪んだ頬、必死に戦っているものは良心の筈なんだ。
首領は微笑む。
他愛無い話をして、煙草を灰にしてゆく。
こいつは裏切るつもりなのだろう。
それは見ていて解るものだ。
そうしてその企てがどの段階であるのかも。
何か起こる前に切り捨てればいいことだ、
仲間は居ないに越したことがない、
誰にも裏切られることがないんだから。
そう思いつつ、彼はその一言が云えない。
弱り切った男の貌はまだ何処か縋るようで、
ならばその手は振り解けなかった。
それでも知っているように、人生なんて別れの連続なのだろう。
ある夜男は居なくなり、金庫の中の書類が全て消えていた。
空になった金庫を見ても憎しみは湧かず、あぁやっぱりと思っただけだった。
一人彼を追う。
月の明るい夜で、鎮まった街は胎盤のように。
あたたかく纏わりつき、脳の奥がじんじん痛んだ。
何処に居るだろう、何処に遣るつもりだろう、
あァ、可笑しな話だ。思えば俺は予期していた筈だろう。
どうして誰にも見張らせていなかったんだ。
どうして、まるで試すような真似を。
頭が痛むので考えたくはなかった。
気が付くと彼は数ある安住の隠れ家の一つに来ていた。
周りに家は疎らで閑静、上等とは云えない家だが、均整の取れた煉瓦の模様と精緻な窓枠が好きだった。
なんとも月の明るい夜で、
ランプも燈していない窓の向こうに黒い影がはっきり見えた。
静かに階段を上がる。…
応接室の椅子に凭れ、裏切った男が身じろぎせずに坐っていた。
まるで天からの使者のように厳かに、足音に気付いた頬は月に蒼く震えていた。
彼はその貌を見た途端、不意に胸の内を蓋い始めたものに気付いた。
ふつりと湧き上がるものが毀れないように拳を握り締め、強張った男に囁きかける。
「莫迦者が。」
冷ややかな声に弾かれ、男は叫んだ。
「すみません、パトロン、すみません、、」
男の声は掠れて縋りつくようだ。
握った拳が痛い。
「どうして俺を裏切ったりしたんだ。」
彼の声はとても静かで可笑しいほどだった。
しかしいつものように嗤う気にはなれない。
「あの書類は盗んでも無駄だよ。」
彼はゆっくりと男に近づく。
横から照る月の光で影が長く床を這う。
黒く塗られた男の口端が引き攣った。
「あれは写しだ。他人が流用しようとすれば本物共々価値が無くなるようにしてあるんだ。
俺以外には無駄なんだよ。返してくれ。」
彼はその秘密を仲間内の誰にも告げてはいなかった。
男は僅かによろめいたように見えた。
その隙を突いて、彼は男の名を囁く。
呼ばれた声を反芻し、男は懐に手を、
握り締めた先には銀に輝く拳銃。
彼は一瞬死を思った。
そうして嗤い、不敵に伸ばした腕で男の手を、
男は銃口を突きつける。
暗い目元がきらりと光る。
眸に輝いていたのは狂気の光でもなんでもなくて、唯の涙だった。
彼のうちから何かが毀れて落ちる。
「大莫迦者め、誰が赦さないと云った。」
彼の声もまるで縋るようだった。
引き金には指が掛かっている。
彼はその腕を捻り上げた。
男は痛みに鈍く悲鳴を上げる。
しかし銃を取り落としたりしなかった。
止めろ、
叫んだ声は見事に掻き消された。
手元が爆ぜて、脳が過度の衝撃に耐え切れず激しく軋む。
一瞬意識が飛んで、気付けば背中を強かに打ちつけて必死で喘いでいた。
痛みに耳元を抑えると血で濡れる。
息が出来ず肢が動かない、それでも這うように身体を起こす。
椅子に頭を預けたまま、男の顔は影を作っていた。
窪んだ眼窩に咽喉が震える。
毀れてしまう、彼は蹲り男の額に開いた孔を見ながら、
あぁ、即死だっただろうか。そればかり考えていた。
死など恐れていなかった。
自分なら何とか切り抜けられる、もし無理なら、それは天の思いと受けよう。
しかし彼はまだまだ置いていかれることには脆かった。
自分の限界を厭という程知っている彼は、他人の死には酷く弱い。
額に開いた孔を見て、きっと即死だったのだと彼は一人自分に云い聴かせた。