…彼はその日のうちに部屋を片付け、男の死骸を担いで外に出た。
周りはまだ騒ぐ気配がない。酷く幸いだった。
月の明るい夜なのに。
ひっそりと埋葬し、帰ってきたのは夜明けに近かった。
しかし矢張り銃声に気付いた者が居て、姿を消した住人に心配を寄せていた。
警察の姿も窺え、彼は無防備にも本来の容貌を変えていなかった自分に腹を立てた。
灰色に倦んだ皮膚に乱れた髪の青年を見て、巡査はすぐさま不審な眼を遣す。
左の頬は血に固まり、眼の下には黒く浮かんだ隈が見えた。
彼は銃が暴発したのだ、と云った。
鼓膜が破れてしまい医者を探したが、生憎巧く見つけられず、それでこんなにも遅くなってしまった。
巡査は険しい眼で青年を見たが、彼は平然と華奢な耳に触れ、ゆっくりと微笑んだ。
それでも美しい貌は幽かに歪む。…
結局彼の偽装は公的に認められたが、それで無事終わったというわけでもなかった。
あの巡査の後ろには、恐らくパリ警視庁で名高いガニマール警部が控えているだろう。
数々の企てを抱えている彼はそれだけ慎重に成らざるを得ず、すぐさま家を引き払いよそに移ることが出来なかった。
書類は盗まれただけで手もつけられておらず、本物と一緒に一所に預けておくよう手配した。
自分から名乗りを上げたのか誑かされたのかは知らない。その相手が誰かも、あの堅固な良心を動かせた衝撃も、
何を思っていたのかすら。
とっとと逃げ去ってしまえば良かったのに。
しかし知って笑う自信が彼には無かった。
そして死んだ男。
彼は次の日、部下たちに一通の手紙を見せた。
「アイルランド人の女と結婚するんだそうだ。」
彼らは歓声を上げ喜び合い、そしてちっとも話してくれなかったと不満も述べた。
「ご存知だったんですか、パトロン?」
「知らなかったさ、今朝郵便受けに入ってたんだからな。」
低く呟く首領に彼らは忍び笑いを漏らす。
「だからそんなに機嫌が悪いんですか、パトロン。云ってくれなかったから?」
その言葉は殆ど彼には聴こえていなかった。
痛む傷の所為で音が拾えなかったし、聴こうと努めるのも厭だった。
彼は眠りもせずに男の手紙を書き上げた。
真似の出来ない字なんか無い、云い聴かせペンを動かし、一心に書いた。
私には恋人が居て----------
将来を誓い合い------------
彼女の父親がやっと承諾してくれ、晴れて彼女の母国にゆけることになりました-------------
恋人に宛てて書くつもりで文を織っていった。
結びに来て彼は気付く。
さよならをどう綴ろう。
考えた挙句、彼は神の御許へではない方を選んだ。
これなら彼の部下たちも、置いていかれたとは思いこそすれ、きっと悲しみで傷付いたりはしないだろう。
綴り終わって、彼はようやく少しすすり泣いた。
俺が本気で騙そうとすれば掛からない奴なんて居ないさ。
無邪気に笑い合う部下達を見て彼は思う。
そうして不意に気付いた。
あぁ、あのとき胸を蓋った厭なものが。
彼は我慢が出来なくなり、大声で怒鳴り手下たちを部屋から追い出した。
唖然とする顔々が見えたが眼の端にも留めず、机にうつ伏せて息を殺して泣いた。
泣き声すらも耳には響かない。
彼は赤く腫れた眼を閉じ、ひとときでも眠ってしまおうと思った。
誰よりどの感情も一際強く感じる彼。
あぁ、俺は悲しいのだろう。
笑えないまま眼を伏せる。
END
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泣きますから、ほんとうに。(号泣☆)
かわいそうや〜どっちもかわいそうや〜(T△T)
こういうこともある。って言ってしまえばそれまでなんだけど。ああでもかなしい。
美しすぎるものは かなしすぎる。
それでもボクらがついていくのは、あなたがそんな人だから。
いつもいつも善い作品をありがとうございますイチヒトさん。
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