=汚れたグラスに注ぐもの(リパとある娼婦)=
殺りたくても、自分の手を汚すのは嫌な気位ばかりが高い臆病者。
そんな連中から興味も無い大金を押し付けられて代行を受けることがあった。
代わってやるのはもちろん殺人。
『仕事は?』と訊かれたら臆面もなく俺はそうと答えるだろう。
そんな数多くこなす仕事の中に稀に生まれる、例外。
その代行はちょっと面倒くさかった。
殺れと頼まれた娼婦には名前が無かった。
まあ珍しいことじゃない。
だがそれでも彼女らは何らかの偽名を名乗っていたりするものなのだ。
だが今回のソイツにはそれが無い。
しかも、同じ客とは二度と寝ない。
一回こっきり、だから名乗る必要も無いというところなのだろう。
下町色町でそんな変わったポリシーを貫いてる奴なんてそうは居ないから見つけるのは割りと簡単だった。
ただ、どう接触するかだった。
個人的な趣味でなら、何処でどう殺したって構わない。
ただ悪いことにこれは代行だ。
誰にも知られぬように、ひっそりと殺らなければならなかった。
めんどくせェな
ターゲットの居るバー、同じ空間で、ジンを呷る。
どうやってターゲットの目に留まらせようか、そう考えていたときだった。
そこの紅い髪した若人さん
透き通るような声で。
ゆったりとした、薄汚れたドレスを漂わせながら、カウンター席に居たジャックの隣に件の女が座った。
俺の顔を見て、あら、と女は少し声を上げた。
俺の顔を覗きこんで、俺の目の色を見た奴の反応は誰もが一緒だ。
「マスター、ジン」
か細い声が、ロンドン中に広まった安酒を頼んだ。
「アンタ、名前は?」
訊かれても、女はただ微笑うだけだった。
「好きに」
一寸遅れて、声が届く。
「じゃあ、ジン」
俺がそう言うと女はちょっと驚いたように目を瞠り、そしてまた微笑った。
女の当座の住まいだというボロアパート、その一室に上がり込む。
床板はすっかり干乾びて、歩くたびにギシギシと悲鳴を上げた。
部屋はひとつで、粗末な寝台とサイドテーブルが置いてある他は何も無かった。
ただ帰って寝るだけ。
それだけの部屋だった。
女と並んで、寝台に座る。
「ウチで出来るおもてなしはこれだけ」
薄汚れたグラスに、トクトクとジンを注ぐ女の手。
はい、と手渡されたグラスを透かして、部屋を覗く。
薄汚れたグラス
グラスの中で揺れるジン
その向こうでさらに揺らぐ、粗末な部屋。
ゆらゆらとグラスを揺らすたびに、薄汚れた部屋が巡る。
特別、どうってことのないことであり、ものだったが。
俺は酷くソレが気に入っていた。
「・・・・氷は、無いかな」
思わず漏らした呟きに、女は、いやジンは顔を顰める。
「いやぁね、酒に氷だなんて」
邪道よ、とジンは言った。
「俺だって別に酒に氷を入れたいとは思わんさ」
ただ。
「似合うと思ったんだ。このグラスと、ジンと、この部屋に」
薄汚れたグラス
グラスの中で揺れるジン
その向こうでさらに揺らぐ、粗末な部屋。
そして、カラカラと音を立てて回る氷石。
煙たい、退廃的なこの部屋には酷くそれが似合いだと思った。
汚れたそれらが、酷く美しく思えて。
「アーティストなのね」
「ガキのラクガキと大差ないもんなら描いてた」
微笑みがそのまま表されたような声音と、クククッと俺の喉から漏れる忍び笑いが重なる。
一足先に寝台に寝っ転がった女は、薄汚れたグラスに注がれたジンを恭しく飲み干す俺を見ていた。
いままでいろんな男にそのグラスでジンを出したが、そんな風に勿体ぶって飲む男は初めてだと女は笑う。
「ねぇ、そういえばそのグラスと、この部屋に似合うって言ったのは、『どっちの』ジン?」
その問いに答えることなく、俺は女の口を塞いだ。
こんな薄暗い部屋にも、朝日はそれなりに差し込む。
狭いベッドの中、体を起こした俺の横には女がまだ眠ってる。
眠るその顔は、決して美人と言える方では無い。
何の変哲も無い、生娘の顔だった。
サイドテーブルには、昨日のグラスとジンの瓶が載っている。
からっぽの汚れたグラス
半分残ったジンの酒瓶
粗末な部屋
そして女であるところのジン
さて、どうしたもんか。
朝の倦怠感に身をゆだねてぼぉっとしていると、突然けたたましく窓を叩かれた。
「んあ?」
なんだと思ってガタピシ言う窓を開けてやればこのボロアパートの大家の使いだとか言う奴だった。
家賃の取り立てに来たのだ、というものだった。
「いくらだよ」
「6ペンス」
「ほれ」
6ペンス硬貨を放り投げて、ガタピシと軋む窓を閉めた。
さて、どうしたもんか。
からっぽの汚れたグラス
半分残ったジンの酒瓶
粗末な部屋
そして女であるところのジン
女は未だ眠りの淵に沈んでいて、目覚めそうに無い。
───女が目を覚ました頃にはもう陽が高く昇っており、昨夜寝たはずの紅き若人は居なかった。
だるい体を起こし、サイドテーブルを見た彼女は驚きに目を見開く。
昨夜若人がかざしたグラスの中で揺れていた粗末な部屋
半分残ったジンの酒瓶
そしてあの紅き若人が似合うと言った
からっぽだったはずの汚れたグラスには、溢れるほどのコインが注がれていた。
屠者ではありません ユダヤ人とも違います
ましてや異国の船乗りとは
私はあなたが心を詐す
親愛なる友、切り裂きジャック。
いつか恐怖の寵児となる男の、語られることの無いある日の気まぐれ。
END
最後の「屠者〜切り裂きジャック。」はジョナサン・グッドマンの『血まみれの短詩―犯罪の韻文』から。
時間軸的には、切り裂きジャック事件を行う前。殺人代行人で食いブチ稼いでた頃の、数少ない気まぐれ話。
ああしかしお金の単位がわからな・・・(貨幣価値も/撲殺★)リパさんてば、汚れたグラスがよっぽど気に入ったらしいです^^
ブラウザバックプリーズ!
06.04.22.SUISEN