記憶のある男=ロンドン編�機�

 

 随分と前に、私はある一人の不思議な男と出会った。

 それはクラブのバーでのことで、その日の私は

 見知った飲み仲間たちに軽く挨拶を交わしながら一人で穏やかに飲んでいた。

 

 バーに立ち込めるゆったりとした雰囲気を心地よく思っていると

 カラン、とドアベルが鳴ってまた一人の客人が店に入ってきた。

 何気なく視線を向けると、黒の長いロングコートを羽織った長身痩躯の男が、入り口の階段をゆっくりと下りてくるところだった。

 なんとなく男の動きを目で追っていると、男はマスターに酒を頼み、出された酒を黒の手袋を外さぬまま一口飲んだ。

 と、そこでその男がこちらを振り返り驚きに目を瞠り、そして何とも言えない柔和な微笑を浮かべたのである。

 そのあまりにも親しみの籠もった、旧友にでも向けるようなまなざしに私は戸惑った。

 

 いくら記憶を掘り返そうとも、男の顔にまったく見覚えが無かったからである。

 

 戸惑いを隠せずにいると男は微笑を浮かべたまま、あまつさえ嬉しそうな感さえ漂わせながらこちらに歩み寄ってきた。

 そうして私にこう言ったのである。

 

「御見逸れしました、まさか貴方だとは」

 

 私は戸惑いを通り越して驚いた。

 どんなに必死に私の記憶の中を洗おうとも憶えの無いこの男は確かに見ず知らずの他人であるはずなのに、

 私はその彼から知人扱いを受けてしまったのだ。

 私が驚いているのを見とめると、彼は浮かべた微笑を少し困ったものへと変えた。

 

「おや、お忘れですか?以前もこうして酒場で、このようにお会いしたのですがね」

 

 男はあっけに取られて自分を眺める私に気を悪くした様子も無く、ただ穏やかに話しかけてくる。

 その声がまた不思議で、まるでこだまのように耳に響き、まるで肉声とは思えないものだった。

 

 私は男の顔を、バーの薄暗さを払い除けるようにして食い入るように見つめた。

 整った顔立ちで、歳まだ若い青年に見えた。夜会にでも行けばご夫人たちの視線の的となることだろう。

 だがその目は空虚というかどこか虚ろで、湖の奥底を表しているような目だった。

 そんな瞳に長い睫は伏せられ、常に憂いを帯びたような、しかし浮かべる微笑によって不思議な美しさを保っている。

 色白で、むしろ顔色は蒼褪めて見え、お世辞にも『健康的』とは言えそうも無かった。

 見れば見るほど憶えの無い、不思議な顔だった。

 

「それは失礼しました、・・・何分、忘れっぽくて」

 

 気がつけば私はそう答えていた。

 この不思議で奇妙な男を目の前にして、簡単には『知らない』とは言えなくなってしまったからかもしれない。

 すると男は再び微笑に嬉しさを滲ませて言った。

 

「ふふふ、そうでしょうそうでしょう。貴方は以前お会いした時もそんなことを言ってらっしゃいました」

 

 ふふふ、と笑う彼に皮肉な含みは無く、むしろ旧友の変わらぬ性質を微笑ましく思っているように見えた。

 私はそんな彼の素振に安堵し、そうでしたかと返すと忘れかけていた酒をひとくち飲んだ。

 それから私たちはこれといった会話も無く、バーの雰囲気に浸っていた。

 男も、私のテーブルから離れることこそは無かったが、こちらに視線を向けることは無くただじっと前だけを見ていた・・・

 

 

 ***

 

 

「三年ですよ」

「え?」

 

 いままで黙っていた彼が、唐突にぽつりとそう言った。

 

「太陽のように降り注ぐ絶望も、闇夜に立ち込める夜霧のような悲しさも、胸が張り裂けそうな嘆きも、三年です。

 いいですか、三年ですよ。三年・・・・・・」

 

 突然彼はこちらを向き、私の顔の前に人差し指を立て、まるで生徒に教えを正すかのように言い募った。

 何のことかは分からなかったが、彼があまりにも必死に言うので私は焦って肯いた。

 冷静な同居人が居たらきっと、

『何を言ってるんだい、君は。ワトソン、君もこんなヤツの狂言に付き合うんじゃないよ』

 とでも言ったに違いない。

 だがしかしあいにくここに同居人は居らず、酒のせいもあっただろうが私はこの男の不思議な雰囲気にすっかり呑まれてしまっていた。

 私が肯いたのを見届けると、男は満足気に微笑んだ。代金と店主へのチップを置いて背を向ける。

 

「あっ、貴方のお名前を、まだ・・・」

 

 足早に立ち去ろうとする男を呼び止める。

 そういえばまだ名前も訊いていなかったのだ。

 すると男は階段を登り、店の入り口に手をかけたところで振り返りこう言った。

 

 

「私ですか?私は “ 記憶のある男 ”。ご記憶くださいますように」

 

 

 ではまた。三年ですよ、ドクター。

 にこやかにそう告げると黒いコートをサッと翻して男はドアの向こうへと消えた。

 私は唖然としたが、すぐに正気を取り戻し慌てて後を追いかけバーの扉を開け放った。

 あれだけ黒尽くめという特異な格好をしていれば目立つであろう姿は、しかし閑散とした通りには何処にも見つけられなかった。

 狐につままれたような気分になりながら、店主に声をかけられるまで呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

 

 ライヘンバッハの滝でのあの事件が起きたのは、それから半年も経たない日のことだった。

 

 

 

 END

 不思議な男が現れちゃいました。(笑)
 空白の三年間を乗り切るようワトソン君に示唆して去ってゆかれました^^

 ブラウザバックプリーズ!

 06.07.17.SUISEN