青年紳士の姿で、カツカツと世田谷の屋敷町を歩いていたときのこと。
ふと瞬きをした瞬間に瞳から何かが零れ落ちる感触に、アッと声を漏らしたときにはもう遅かった。
『 月 夜 の た わ む れ 』
小さく声を詰まらせて立ち止まった青年紳士───二十面相は慌てて携帯用の鏡を出して己の眼を確認した。
覗き窓のような鏡に映し出された左右色の異なる眼を見とめると、二十面相は溜息を吐いた。
片眼は、日本人には一般的な黒い瞳であった。
だがもう片方の眼には、秋の月の輝きと見紛うほどの黄金色の瞳が埋まっていた。
黒のコンタクトレンズが取れてしまったのだ───これだけは如何様な変装にも関わらず、二十面相にとって無くてはならないものだった。
黒や茶色の眼を持つ日本人であれば、青い眼を持つ異国人の瞳の色に憧れてかえって鮮やかなコンタクトレンズをつけるのだろうが、
二十面相にとって、コンタクトレンズをつけると言う行為は人々に溶け込む為にあった。
彼の眼は、生まれつきの黄金目であった。
通常、人が持ちえぬ異色の瞳。
それは人々の好奇と嫌悪を刺激する。
───これが無くて、どうして陽の下を堂々と歩けよう。
懐に鏡を仕舞い込み、更にその奥を探る。
しかしそこに望むものは無く、二十面相は急速に顔を顰めた。
「まいったな・・・・」
どうも替えのコンタクトレンズを忘れてきてしまったらしい。
必需品の替えを忘れてくるなど、失態もいいところだ。
落としてしまった片割れを探そうにも、時刻はちょうど黄昏時。
誰そ彼に由来するだけあって、すべてが判然としないぼんやりとした世界でちっぽけな硝子片を見つけることなど到底無理であった。
ましてやこれから夜の統べる闇が来るのだ。
「困りましたねぇ」
薄闇の中、片眼だけを異様に輝かせて二十面相が本気で途方に暮れた、そのときであった。
「どうなさったの?」
背後から、鈴を転がすような声が響いた。
慌てて露わになった片眼を手で隠して振り返る。
だが視線の先には誰も居らず───二十面相は一瞬怪訝な顔になったが、視線を落とすにあたって得心がいった。
己の腰丈にようやっと届くかというほどの少女が、琥珀鼈甲の瞳を瞬かせて不思議そうにこちらを見つめていた。
夕暮れの空気にたゆたう水色のエプロンドレスを身に纏ったなんとも可愛らしい和製アリスのご登場に、さしもの二十面相も思わず顔を綻ばせた。
「これは可愛らしいお嬢さん、私に何か御用かな」
小さすぎる淑女のために膝をつき、正面から少女を見つめる格好になる。
こちらをまっすぐに見つめてくる琥珀鼈甲の瞳に、ふと詮無き思考が二十面相の脳裏を掠める。
自分の眼も、せめてこの少女の持つような色であったら・・・・
降って湧いたくだらない考えに満たされる前に、慌ててそれに蓋をする。だってそれは、いくら思ったところでどうしようもないことだ。
「御用ということもないけれど・・・・お困りのようだったから。・・・・眼を、どうかなさったの?」
どうやら少女は随分前から彼の様子を見ていたらしい。あまつさえ片眼を手なんぞで隠しているものだから、
いたいけな少女の顔はまるで彼女自身がどこかを痛めたかのように眉を寄せ、その琥珀を曇らせた。
「ああ・・・ちょっと、コンタクトレンズを落としてしまってね。替えも持ってきていないものだったから、
少し困っていただけだよ・・・・何せ、人には見せられない眼をしているものだから」
ぼつりと漏らした自身の最後の呟きに、要らぬ言葉であったと瞬時に振り返り空いていた手で口元を押さえた。
「眼がお悪いの?私でよかったら探すのお手伝いするわ」
しかし少女はそんな二十面相の様子など気にすることも無く、夕闇に霞む道端へと視線を落とす。
その様子に二十面相は苦笑を浮かべてかぶりを振ると、やんわりと少女を制止する。
「ありがとう。でもこの暗さではもう見つけるのは難しいでしょう。それにもう御家に帰る時分ではありませんか?家人の方が、ご心配なさるでしょう」
「お家は、すぐそこなの。ほら、あの洋館。・・・・そうだわ!」
何を思いついたのか、少女は琥珀の眼を煌かせて明るい声を上げた。
「私の小父様も、コンタクトレンズを持っていらっしゃるの。私、小父様にお願いしてみるわ」
名案だと言わんばかりに頬をほんのりと上気させて、少女は二十面相の服の裾を掴んだ。
「しかし・・・」
渋る二十面相に、少女は更に追い討ちをかけた。
「黒は無いかもしれないけれど、茶色ぐらいだったらきっとあるわ。片眼をずっと手で隠して帰るなんて、大変だもの・・・・」
言葉尻は彼の家路を気にかけて曇りを帯びた。
確かに、家路はそう近くはない。変装具を隠してある地下通路の場所も、ここからでは少々遠い。
「それでは・・・・・お言葉に甘えることにいたしましょう」
少女の申し出を受ける為の理由は確かにあったが、変幻自在、手段は多種多様を極める怪盗であることを考えれば、どれも決定的ではなかったかもしれない。
単純に彼のことを慮ってくれた少女の厚意を無碍にしたくなかった。
ただ、それだけだったのだろう。
顔を破顔させ、先に立って歩き始めた少女の後を、苦笑混じりの顔で二十面相扮する青年紳士がついて行く。
少女の案内で着いた家は先ほど彼らが居た場所からほんの少し歩いたところで、木造の洋館であった。
建物は少々古いが、なかなかの造りであることが薄闇の中でも見て取れた。
敷石をトン、トン、と飛び跳ねていく少女の姿を微笑ましく眺めながら二十面相も敷地に足を踏み入れたところで、
玄関の扉が徐に開いて黒いフロックコートに身を包んだ紳士が現れた。
「小父様!!」
「愛子!」
少女は玄関から出てきた人物を見止めると、すぐさまこれに飛びついた。
それを驚き受け止めた紳士が、彼女の『小父様』であるらしい。
「小父様、お出かけなの?」
ぱっちりとした眼を瞬かせて小首をかしげる少女に、『小父様』と呼ばれた紳士は渋面を作る。
「もう暗くなるというのに愛子が帰ってこないから、少しこの辺りを歩いてみようとしていたところだったのだよ・・・そちらの方は?」
漸くこちらに気づいた紳士に、空いた手で帽子を取ると失礼と思いながらも片眼に手を添えたまま二十面相が会釈する。
「そこの道で、コンタクトレンズを落としてお困りだったの。ねぇ、小父様。小父様の持ってるコンタクトレンズを差し上げては駄目かしら」
二十面相のことを思い出した少女は彼女の小父に取り縋って言い募った。
「それは構わないが・・・私の持っているものは度が入っていないよ?」
お洒落の為のものだからね?と付け足した紳士の言葉に少女が背後の二十面相を振り返った。
それを受けて、二十面相が口を開く。
「構いませんよ。私には、隠す為のものですから」
その言葉をどう取ったのか紳士は怪訝な顔をしたが、それならばと二十面相を屋敷へと招き入れた。
濃黒の両眼と偽りの片眼が、一瞬視線を交える。
応接室に通されて暫くすると先ほどの少女が盆に茶器を載せて入ってきた。
可愛いお茶運び人形だと、二十面相は内心笑った。
「はい、どうぞ」
「はい、ありがとう」
コトンと彼の目の前に茶器を置くと少女は直に小父様が来ますからと言い置いて退出した。
少女が居なくなったのを機に、二十面相は黄金目を隠していた手をようやく下ろした。
一息ついて視線を上げると、夜を映した窓ガラスに異様に煌く黄金目。
なんて奇怪さだ───己の姿に、口端が嘲笑を象る。
異質、異形、異型。形容は何でもよかった。
見たもの全てを瞬間的に凍りつかせ、次に恐怖、そして恐怖は怒りを誘発する。
訳の分からない、道理に反したものを見せられた怒り───思えば自分を産み落とした母は、よく自分を殺さなかったものだと思う。
抹消後に生じる呪われるといった形無き恐怖が勝ったのだろうか。
女児の格好にされ内に押し込められてはいたが同時に外へと抜け出すことを咎められたりはしなかった。
髪の長い人だったか、母は。
記憶に薄い母の面差しに意識を傾きかけていた頃だった。
闇の甘さに溶けるように存在する気配に気づく。
「・・・・・そんなところにいつまでもいらっしゃらずに入ってきたら如何です」
もう無意味かとも思ったが一応黄金目を手で覆う。
「これは失礼しました」
キィッと軽く扉を軋ませて口元に赤い弧を描いた男が現れる。
「茶黒のもので未使用のものがあったので、お持ちしました。型は一般的なものなので大丈夫かと」
テーブルを挟む形で向かいに座った男は手にしていたコンタクトレンズの入ったケースを差し出してきた。
空いた片手でそれを受け取り、いつも己が使っているものと大差ないものであることを確認すると安堵の息を零した。
「これで結構です、大丈夫です。どうもありがとうございます。助かりました」
このときばかりは心から礼を述べた二十面相に、紳士はいいえと微笑んだ。
「娘を送ってきてくださったのですから、これくらいどうということありませんよ」
「娘さんは困っていた私に気づいて声をかけてくれただけですよ。・・・可愛い娘さんでしたね」
レンズの入ったケースを懐に仕舞う。二十面相はこの屋敷を出てから適当なところでそれを眼に収めるつもりだった。
「いま、付けていかれないんですか?」
その様子を見ていた紳士が透かさず口を挟んだ。
「・・・・・・・今でなくてはいけませんか?」
二十面相の口調が重くなる。
「いえ、お困りのはずでは、と思っただけで。・・・・そういえば、先ほども『隠す為』と仰られていましたね。
人に見られて困るような眼の色でもお持ちなんですか?たとえば・・・・・・・黄金色とか?」
ギッ、と二十面相が片眼だけで目の前の男を睨めつける。
紳士の言葉の最後は明らかに揶揄めいた口調に変わっていた。
「・・・・・失礼な方ですね、盗み見る、とは、」
凄みを利かせた低い声で呟けば相手は嬉しそうに口角を上げた。
「確認ですよ。貴方だって、感付いておられたのではないのですか?」
するりと紳士が立ち上がる。無駄の無いその所作、まるで空気の流動に身を任せるような。
「見返りを求めるわけではありませんが───貴方さえ良ければ、見せてはいただけませんか?」
「・・・・・・・・・何、を」
この男はいつのまに隣に来たのだろう。二十面相は己の隣に座り身体を傾けてくる男を視界に入れて眼を眇める。
苦手だ、この男は。あのときもそうだった。
気配が己と似通い過ぎていて、強く意識して見ていないといつのまにか懐に入り込まれてしまう。
「勿論、」
腿がぶつかり、あまつさえ頬に手まで添えられて。
「天高く浮かぶ望月のように美しいその眼をですよ、黄金目の君」
気づけば頑なに片眼を覆っていた手は取り払われ、もう片方の眼も色レンズを奪われていた。
室内照明の下、露わになった黄金目が瞬く。
「嗚呼、やはり美しい。先だってお会いしたときはあまりじっくり拝見できませんでしたものね」
そう、先日の夜。
二十面相が兼ねてから手に入れたいと思っていた宝飾品を所有している屋敷に忍び込んだときのこと。
お目当ての宝飾品を見つけてそれを手に取った彼はひととき宝玉たちの美しさにうっとりしていた。
だが、それを影から見ていた人物が居た。
物陰と夜の闇に文字通り影のように潜んでいたその人物も目的は同じであった。
そこで先を越されて獲物を奪われたのだから、すぐさま取り返さんと誰もが思うだろう。
ゆらりと物陰から闇より暗い影が現れる。だが、そのとき影が魅せられたのは彼の手で輝く宝飾たちではなかった。
宝玉を見つめるその瞳───手にしている宝石たちなど一瞬にして色褪せてしまうほど、煌きを放つその色は人の持ちえぬ黄金。
はじめは色付きレンズでもつけているのかとでも思ったが、すぐに違うと気がついた。
紛い物に、あんな色は出せない。
紛い物に、あんな煌きは持てない。
あの、天空に浮かぶ望月のような美しさを───
「やはり、あの時の方ですか。先日といい今日といい、いきなり人を押し倒すとは無礼もいいところですね」
言って二十面相は己を組み伏せる相手をキッと睨みつける。
しかしいくら凄んで見せても、目の前の人物は剣呑に煌く黄金目をうっとりと眺めるばかりだ。
「思い出して頂けて光栄ですよ。しかし美しい!貴方も宝石の類がお好きなようですが、
貴方の瞳に映ってしまってはどんな宝石も価値のない硝子玉だ・・・金塊を宝玉に成し得た、この眼にかかっては・・・・・」
ほう、と恍惚の息を漏らして男は二十面相の眼元にくちづける。
二十面相がそれにビクリと身を竦ませたのに気を良くしたのか、男は執拗に啄ばむようなくちづけを落とした。
「んっ・・・」
逃げるほどに追ってくる唇に目を眇めて顔を背けようとするが両頬を挟んだ白い手がそれを許さない。
ふと気づけば襟元の釦が二つ三つ取れ、首筋が露わになっている。
男の唇がなぞるようにそこに宛てられるに至って、二十面相の肌が粟立つ。
「!!」
何の抵抗も無く組み敷かれていた身体が、思い出したかのように強く男の身体を押しのけた。
「もう、充分ご覧になったでしょう」
乱れた襟元を手早く正すと、一度は懐に仕舞ったコンタクトレンズをその眼に収めた。
たちまち茶黒の陰に隠れてしまった真の黄金目を惜しんでか、男はその様子を至極残念そうに眺めていた。
「お帰りになられますか」
「・・・・この後、人と会う約束をしてますので」
今夜は明智と会うことになっていた。というか、先日この男に襲われたせいで取り消しになってしまった分の埋め合わせなのだ。
再びこの男のせいで明智の機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。
ましてや、他の男に襲われていたなどと知れたら。
「見送りは結構ですよ」
先立って立ち上がり、部屋の扉を開きかけた男に二十面相が冷やかに言い放つ。
「そうおっしゃらずに」
苦笑した男の横を、二十面相がすり抜ける。
ともすればそのまま立ち去ってしまいかねない二十面相を、男の囁きが引き止めた。
「貴方を飾りたいものだ」
男の言葉にキッと視線だけで二十面相が鋭く振り返る。
「貴方を、私の展示室の、一番よく見えるところに飾りたいものだ」
男の濃黒の瞳が、黒過ぎるが故に蒼みを帯びて輝く。
男はゆっくりと、二十面相の耳元に口を寄せて吹き込むように囁いた。
「私のものになりませんか」
優しく甘く、包み込む闇のようなそれにひととき眩暈を覚える。
「残念ながら、先約済ですので」
静かな二十面相の拒絶に、男は目を瞠ったが次にはその口元にふっと微笑を浮かべた。
「それは残念。貴方をものにした方と直接交渉しなくてはいけませんね」
男の軽口に、二十面相も徒に眼だけで笑った。
「まず無理だと思いますがね。・・・・・・娘さんによろしくお伝えください」
言い終えると、二十面相は扉の向こうに消えた。
一度静かに閉じられた扉を家主が開けたが、そこにはもう誰の影も形も無かった。
その代わりに、廊下の向こうから歩いてくるちいさな影。
「愛子、」
「あら、小父様。・・・ひょっとしてお客様はお帰りになってしまったのかしら?」
「ああ、つい今し方ね。お茶菓子を持ってきてくれたのかい?」
「ええ。ちょうどよく焼けたものだから、いらっしゃるうちにと思ったのだけれど・・・」
入れ違いになってしまったと肩を落とす娘に、男は苦笑しながら膝をつく。
「せっかくだから、それでお茶にしようか。・・・・・・・・お客様も、愛子によろしくと言っていたよ」
そこでふと男は彼の名を尋ねることを失念していたことに気づく。
まああれほど稀な瞳の持ち主なのだから簡単に知れるだろうが、男にしてはらしくなかった。
「ほんとう?また来てくださるかしら」
途端、パッと花が咲くように顔を綻ばせる娘を連れて男は客間を後にした。
「きっとまた来てくれるさ」
だって同じ夜の人だもの。
言外に、そう言い置いて。
END
さっし様への献上品。正確には差し上げる予定の明智20の、オマケ。
・・・肝心の明智20がまだ出来てません(爆)オマケが先に出来上がるという罠。
それもこれもさっし様宅の20の義理娘が可愛すぎるせいだと言っとく。(ぇ)
あ、さっし様宅20×拙宅20ですこれ。拙宅20は最弱20(ちょっと待て)
また機会があったら是非是非さっし様宅20と20義理娘を拙宅20と絡めたい。(じゅるり)
ブラウザバックプリーズ!
09.05.04.TOWEL・M