倫敦の下町。いつもの闇夜。その闇夜の下に更に濃く広がる闇の中。

 傍目にも奇形と分かる姿をした、一風毛色の変わった少年が不衛生な裏通りを歩いていた。

 

『だ、だれか助けて』

 

「?」

 

 その耳に届いた、救いを求める声。

 

 

 

『一人と一匹の夜』

 

 

 

 ハイドはとくに宛ても無く下町の裏通りを歩いていた。

 相変わらず手は溶けたように歪み、爪と指は一体となっていたし、その目は片目が金で片目が紅だった。

 鼻も低く、髪は夜に目立つ銀。彼の身体を構成するすべてが人々の侮蔑と嫌悪という異臭を放っているようだ。

 だがそれでも最近は彼の悪名も高まるにつれ、いきなり殴られることは少なくなった。

 行きずりの暴力以上に恐ろしいものが、この小さな身体から放出されることに皆が気づき始めたのだ。

 そんなわけで最近のハイドは生傷も無く比較的自由で快活だった。

 嗚呼、これでもう少し手が不自由しなければもっといいのに。

 立ち止まり、奇形の手を見つめ、曲げるのも覚束無い指をわずかに動かしていたときだった。

 

『だ、だれか、たすけて』

 

「?」

 

 不意に耳に届いた声に、きょろきょろと辺りを見回す。だが、周囲に人影は無い。

 空耳だったかと思い、止めていた足取りを動かそうとすると。

 

『おねがい、だれか、たすけて』

 

 また聞こえた。

 いったい何処からと、今度は入念に辺りに視線を巡らす。

 そのときカラカラとレンガが崩れるような音がした。それに続いてバタバタという羽音も。

 路地に並ぶ、崩れた外壁の一部に目が行く。その下には崩れ落ちたレンガが溜まっている。

 試しに近づき、耳を澄ますと。

 

『だれか、たすけて』

 

 はたして声はそこから聞こえてくるのだった。

 

 

 奇妙なことに、ハイドには一部の動物の声が聴き取れた。

 一部、と言ったとおり全ての動物に通じているわけではない。

 たとえば、真っ黒な猫。

 たとえば、墓地の空舞うカラス。

 たとえば、ヌラヌラとした身体を光らせて地を這う蛇。

 人に忌み嫌われる、呪われた動物の声のみ聞き取れるようだった。

 そしてこの度耳に届いた声の主は、一匹の蝙蝠だった。

 崩れたレンガの下敷きになって、動けずにいたらしい。

「・・・・・・・・・」

 レンガを除けてやっても羽ばたかず地に伏せている蝙蝠に触れようとして、手を止める。爪と指が溶け合い一体化してしまった、鋭い指。

 以前、逃げる猫を戯れに鷲掴みにした瞬間に指が猫の身体に突き刺さり悲惨な結果になった。

 

 ハイドくんの指は鋭いから、水をすくうようにして持つのよ。

 

 ハルヒ姉の言葉を思い出して、言われたとおり水をすくうようにして蝙蝠を手のひらに収める。

 すると蝙蝠の形は崩れず、俄かな温かさを保ったまま持つことができた。

 

『や、放して・・・伯爵・・・伯爵ーッ』

 

 だが蝙蝠は解放を願ってばたばたと羽を動かして暴れた。

「・・・・伯爵?」

『?』

 思わず呟いたハイドに、蝙蝠が暴れていた羽を休める。

 暫く、蝙蝠はハイドが己の言葉を理解していると気がついたらしい。

 小さな点のような目で、不思議そうにハイドを見上げる。

「伯爵・・・・・・」

 そしてハイドはというと、蝙蝠の発した『伯爵』という言葉が引っかかっていた。

 

 蝙蝠 + 伯爵 = ドラキュラ

 

 ハイドの中で稚拙な方程式が出来上がる。あとは確認を取るだけ。

「・・・・伯爵って、吸血鬼?」

『! 知ってるの?』

「知ってる」

 伯爵宅まで迷い蝙蝠一匹をわざわざ送り届けるような義理も無いが、今夜はとくに予定もない。

 暇つぶしにはいいだろうと、蝙蝠を持って立ち上がる。

 ふとそこで目の前の壁面に出来た大きな傷に目が止まった。

 よくよく見れば崩れるほど古い壁でもない。その壁の傷は、何か鋭いものに切り裂かれたような痕だった。

 訝しんで顔を顰めていたが、その答えはひとつ向こうの通りから響く音によってもたらされた。

 風を大きく切るような音。続いて何かが地に落ちる音と、絹裂く悲鳴。

 細い小路の隙間から、一瞬見知った蒼が垣間見えた。

 

 ジルドレだ。

 

 その手には、大きな鎌とも斧とも知れない獲物が握られていた。

 珍しく、愛用の得物を持参しているらしい。そしてそれを振り回しているということは、今夜はかなり機嫌がいいのだろう。

 機嫌がいいときのジルドレほど、恐いものは無い。ハイドはそう思う。

 普通は機嫌の悪いときに暴挙にでるものだが、ジルドレは違った。

 機嫌の悪いときは勿論、機嫌が良ければ良いほど凶行に及ぶのだ。

 そんなときのジルドレは、機嫌の悪いとき以上に近づけない。

 近づいたら最後、彼の愛用の得物の餌食となる。

 たしか、『神の愛娘』と言ったか。

 彼の武器自体何というものだったか忘れてしまったが、彼は確か自分の得物をそう呼んで慈しんでいた。

 この場にミスター・ハイドや伯爵が居たら苦笑か失笑していたことだろう。

 前者はジルドレの性癖を知る者として。後者は彼の祖先の奇行を知る者として。

 

 ハイドが思いを巡らす間にも向こうの通りから悲鳴と肉が落ちる音は止まない。

 さっさと立ち去るのが得策と、ハイド少年はその場を後にした。

 

 いつのまにか月が昇っている。今宵は青い月だ。

 ジルドレが上機嫌になるのも分かる気がした。

 狂い踊るには相応しい、美しい月夜だ。

 

 

「ハイド?なんだその蝙蝠」

「・・・・・・・落ちてた」

 ずい、と蝙蝠を乗せた手を差し出す相手は深紅の髪を持つ男。

 いま倫敦中を震え上がらせているジャック・ザ・リッパー、その人である。

 ここはミドルセックスストリートにあるジャックの塒。

 まっすぐ伯爵宅に蝙蝠を送り届けてもよかったが、蝙蝠は少し怪我をしているようだった。

 手負いのペット(?)をそのまま送り届けては、あのドラキュラ相手に一悶着あっても困る。

 かと言って己の奇形の手では手当ても儘ならない。

 

 怪我→手当て→医者→メス→切り裂く→ジャック

 

 またもそんな方程式を組み立てると、ハイド少年は即ジャックの塒へと押しかけたのだった。

「んで?怪我してるって?」

 こくりと頷く少年に、ジャックはどれ、とその歪な手から蝙蝠を取り上げる。

 無作法に薄い羽を広げられ蝙蝠がキーキーと喚く。

『は、はなしてー』

「・・・・大丈夫」

 ジャックの手から逃れようとする蝙蝠に向かって、少年が慰みの言葉をかける。

「大したこと無いな。このくらいなら何とも無い」

 言ってジャックは漆黒の蝙蝠の身に白く淡い包帯を軽く一巻きして処置を終えた。

 ハイドはジャックに礼を言うと、蝙蝠を伯爵の下へ送り届けるべく再び夜の倫敦へ足を踏み出した。

 

 

「おやリトル。どうしました?今夜はこんなところへ」

「こんな所とは何だ」

 伯爵の屋敷へ行くと先客にミスター・ハイドが居た。

 思わぬ客に、ミスター・ハイドは悦びの表情を隠すことなく弾んだ声をあげる。

 そんなハイドが漏らした発言に不服があったらしい伯爵が素早く眉を寄せてその旨を零す。

 だがしかし当のミスターには届かなかったとみえ、彼はすでに椅子から立ち上がり少年へと歩み寄っていた。

 そんなミスターに幼いハイドはたじろぐ。彼のその、一気に心の間合いまで詰めてしまう動作に未だ慣れていないのだ。

「リトル、その手に持っているものは?」

 幼いハイドとの距離を一気に詰めてその手を取ろうとしたミスター・ハイドが少年の歪んだ手の中に何か居るのを見つける。

 そこで少年は暫く己の目的を思い出し、ミスター・ハイドの横をすり抜けると後ろに我関せずと控えていた伯爵に向かって手の中の物を差し出す。

 伯爵は当初少年に何の興味も解さず顔を背けていたが、少年の手から飛び出して己に縋ってきたものを捉えると瞠目した。

『伯爵ーッ!!』

「! ロジャー?!」

 伯爵に飛びついたのは、彼の屋敷の小さな執事。

 バタバタと羽ばたかせる闇を塗った翼に白く目立った包帯が否応無しに伯爵の目に付いた。

 伯爵がまさしく射ぬかん、とばかりに少年に鋭い視線を向ける。

 それに少年が一瞬身体を竦ませる。

「伯爵。リトルは傷ついた貴方の手負いの従僕を送り届けてくれたのですから、そんな睨めつけては可哀想ですよ」

 いつのまにかミスター・ハイドがリトル・ハイドの方に手を添えて立っていた。

『伯爵、この人、ボクを助けてくれたんですよ』

 蝙蝠・・・ロジャーの方も必死に主人に事の次第を告げているが、この場でそれを理解しているのは伯爵とリトル・ハイドくらいだろう。

 ミスター・ハイドはキーキーと騒ぐロジャーにこそ心底嫌そうな視線を浴びせる。彼には騒々しい雑音にしか聞こえないのだから致し方なくも無いが。

「助けてない・・・拾っただけで」

 やや興奮気味に主に経緯を伝えるロジャーに、リトル・ハイドはゆるゆると首を振る。

 ハイド少年にしてみれば通りがかったところでロジャーの声が聞こえ、

 その音源を捜しているうちにいつのまにか助けるという行為に繋がってしまっただけでその意図は無い。

 少年がそう言う間にもロジャーは主人にジャックに傷を看てもらったことまで話している。

 赤毛の男、と聞いて急速に伯爵の顔が渋くなった。

 まあ、ジャックはこの程度のことでどうこう言ってくる男ではないが、伯爵の胸の内としては色々複雑なのだろう。

 蝙蝠の怪我が、ジルドレの所業のとばっちりなのだということが伝わらなかっただけマシか。

 

 結局この後ミスター・ハイドとロジャーの押しのおかげでハイド少年は伯爵宅で二度目のティータイムを頂くこととなった。

 これ以後、ハイド少年が夜の倫敦を歩いていると伯爵の使い途中の蝙蝠が挨拶をしてくるようになったのはまた別の話。

 

 

 

END

また性懲りずにこんなもん書いてすみませんナキトさん・・・!
いやでも書きたかったんですハイドとロジャーが。コミュニケイトできそうな気がしたので(爆)
そんなわけで拙宅ハイドにも新しい能力が追加されました(殴打)
そして伯爵さま、微妙にジャックに貸しを作っちゃってごめんなさい(笑)
あ、でもジャックは伯爵襲ってんだから貸しにはなんないか。
こんなんでよければ貰っちゃってくださいナキトさん;
この場を借りてコラボ企画絵ありがとうございましたvvv

ブラウザバックプリーズ!

08.02.29.TOWEL・M