【 Glykys 】
夜の帳が落ちた倫敦では昼間の様な喧噪もなく、唯星々の存在と月の眼差しが蒼く感じられるだけである。
少年が座る位置は、街灯に集う蟲達の囁きが良く感じられる場所。
光へ揺れる翅音は仲間を詰る労働者の声に、撒き散らされる燐粉の音は子を叩く母の怒鳴に近い。
其れでも、彼の表情は不快に歪められる事が無かった。
少年は、あらゆる負に慣れている。 人が持つ情動、肉食動物の残虐性、小動物の狡猾さ、這い摺る蟲の醜悪。
此れ等に嫌悪を抱かないのは、他でも無く彼自身が全てを兼ねているからか。
少年は奇形の残る白い面差しを伏せ、脇に抱えた紙袋の中身を漁った。
取り出したものは紅色の飴。 夜空に透かすと丁度中に月光が写り、少年の見た事が無い景色が其処にあった。
無機質なもの程無垢であり、無欲である事を知っている。 だからこそ彼にとって、この光景は素直に美しいと思えた。
と、其処に妙な影が映り込む。 ふらふらと漂う其れは、正に街頭へ集ろうと横切る蛾の姿であった。
思わず、少年の指に力が込められる。 ぱき、という不穏な音は、彼の景色に皹が入った事を裏付けた。
案の定、紅い欠片が少年の膝に振り落ちる。 ああ、またか。 彼は嘆息した。
少年は色を置き去りにしたかの様な髪を下に垂らす。 すると。
「おや、リトルかな?」
突如声を掛けられ、驚き少年は顔を上げた。 声のした方へ視線を移すと、其処には一人の男の姿がある。
周囲の影と交わる事を本望とする髪色、衣服、男の姿を明確に判別出来るのは其の肌の色だけか。 長い睫毛を伏せ、男は微笑んだ。
「何をしているんだい?」
「ミスター…」
少年は漸く口を開く。 しかし、男の名を正確に呼ぶ事はしない。 其れは、己もまた相手と同じ名を持つからだろう。
だが男は不愉快な表情を作る事はせず、寧ろ少年と逢えた事実に口許を綻ばせ、「失礼」と彼の隣へ平然と腰を下ろすのだ。
少年は身を竦ませた。 何時もながら、この男の接し方には慣れないものがある。
知り合ってから数度しか顔を合わせた事が無いというのに、この親しみようは何か。
今まで限られた人にしか、優しくされた事の無い彼なのだ。 ミスターの間合いに入るには、まだ警戒心が厚過ぎる。
其の長い脚を組む仕草、煙草を吸い始める所作にすら怯えるというのに、嗚呼肩まで組まれて。
「可愛い私のリトル・ハイド。 もう一度聞くよ」
何をしているんだい?と、次は耳元で囁かれる。
普段は然程気にも留めない煙草の香りがやけに近く感じられ、其れだけで少年…リトル・ハイドの心は掻き乱されるのだ。
「な、何も…」
取り敢えずミスターとの間合いを開ける為、自らの身体を横にずらそうとする。 が。
其の拍子に脇に抱えていた紙袋の音が鳴り、自然とミスターの注意を其方に向けてしまった。
「何だね、此れは」
ミスターはハイドの隣に置いてあった紙袋を取り上げる。
ハイドは慌てて取り返そうとするが、其の拍子に己の厳めしい指が目に入り、思い留めた。
先端が爪と交わり固められた、進化とも退化とも云えぬ身体の一部。 今まで此れで、どれ程の命を犠牲にしたか。
ミスターの肌を引き裂いてはならないと、ハイドは出した腕を引っ込める。
対して少年の迷いに気付く筈も無く、ミスターは紙袋の中身を遠慮なく見開くのだった。
「んん?」
ミスターは首を傾げる。 其れも其の筈で、袋の底には様々な色合いの欠片が山程埋められているのだ。
此れの原型が飴だと言わなければ、何の事だか、誰とてミスターと同じ反応を返す筈である。
「硝子かな?」
ミスターが底を揺さぶりながら呟くので、思わず「違う」と言葉が零れた。
「飴…だけど」
「飴?」
ミスターから苦笑が漏れる。
「君か? こんなに形を崩したのは」
仕様のない子だねと呟かれれば、ハイドは気不味く身を竦ませた。
普段より慕うジャックから菓子を貰ったのは良いものの、其の実彼は一つとして此れを口に含めていない。
飴を掴み取る際、力加減が上手くいかず取り崩す事もあれば、先程の様に折角上手く取れたとしても、何らかに気を取られ、うっかり壊す事もあった。
結局、最初は手元に多くあった飴も、今ではすっかり細かく量を増すばかり。
形が無事である飴は、恐らく先刻のもので最後ではないかとすら思える。
「此れでは、割れたステンドグラスだね…」
ミスターは尚底を軽く揺するが、不意に何かに気付いたのか、彼は袋の中へ直に片手を入れ、探る様子を見せる。
「ミスター…?」
何を、とハイドが言いかけたところで、ミスターは袋から手を出した。
「良いものをあげるから、目を閉じなさい」
良いもの? ハイドは小首を傾げるが、しかしミスターの言う事ならば、と彼は瞼を落とす。
「口を開けて」
次の命令に従う様に、ハイドは小さく唇の隙間を開けた。 すると、突如何かを其処へ含まされる感覚。
驚き、目を見開くと、ハイドはミスターの身体を強く押し退ける。
何を? 自分は一体、何を口の中へ入れられたのか。
動転する余りに最初は気付かなかったが、落ち着いて舌の上で転がすと、其れは存外甘かった。
「私の予想では、アニスかな?」
聞き覚えのある果実の名を出され、ハイドは戸惑う。
「底を探っていたら、1個だけ無事なものがあったからね」
ミスターの言葉に、ハイドは口許を引き結んだ。 まさか、ミスターが口の中に入れたものは…
「み、ミスター…」
ハイドはミスターへ寄り、項垂れた。
「ごめんなさい…」
本当にごめんなさい、ミスター・ハイド。 リトル・ハイドが弱々しく呟くのを聴けば、ミスター・ハイドは困った様に笑む。
「良いんだよ、此れぐらい」
ミスターは、リトルが何故謝るのか知っていた。
先程押し退けられ、傷付いた腕を隠す。
【END】
はい、だいぶ前に戴いた(すみませんすみませんすびばせ)ハイド&ハイドですv
ナキトさんが拙宅ハイドを出してくれるたびに『あーウチのハイドってこんなに可愛いんだー』と思います(待てコラ)
最後の一文がめっさ好きです。この余韻、余韻が・・・・!(ゴロゴロゴロ)
すんません、またお待ちしてま(強請るな!/殴 打)
ナキトさん、どうもありがとうございました(>_<)
ブラウザバックプリーズ!
08.08.01.from:ナキトさん