五月の悪夢とぬくもりと

 

 

 ぴちゃん、ぴちゃんと。

 水の滴る音がする。

 ――いや?

 そこで理性が口を利いた。

 水はあんなに紅くないだろうと、そんなに鉄臭くないだろうと。

 感情は必死にその言葉を聞かないようにと、視線を外そうとするのに。

 杭で打ちつけられたかのように、自分の体はぴくりとも動かない。

 足元が、生温い血の池に浸っていて。

 紅い真っ赤な水溜りに、青灰色の髪の毛と白い肌がコントラストを成して倒れている。

 

『――――――っ』

 

 動かない目の前の力の抜けた四肢。

 名前を呼ぼうとしたのに、口からその人物の名前が零れることは無かった。

 なぜだろう?

 答えは実に簡単だ。

 なぜなら、自分はその相手の名前を知らないから。

 いや、知っていたのに。

(――けれどもう、覚えておく必要が無いから。)

 自分じゃないものの声がふと耳元で囁いた。その言葉に簡単に自分の心は揺らぐ。

 自分に必要が無いものだから?

 自分に必要がなくなったから?

 だから、彼は今こんな風に?

 疑問ばかりで一歩もそこから動けない。その中を。

 かつん、かつん――と近寄る静かな足音。

 徐々に近寄るそれ。暗闇に目を凝らせば、浮かび上がる影。

 言葉を失った。だって、それは。――誰あろう己の姿。

 軽く息を吸い込んだ。

 ぴちゃん、ぴちゃんと紅い水音。

 かつ、かつ、かつ。

 近寄る足音は、そして血の池の中に膝を付く。自分ではまともに見る機会もないライトグリーンの目が、陰鬱な影を作る。

 ぱしゃりと、血の海から『彼』を掬い上げる両手。

 動きたいのに――動けない。

 目の前の自分はそんなこちらを嘲笑うように掬い上げた体を、見せ付けるように抱きしめる。

 白い肌。

 閉じられたままの瞳。

 血の気の引いた唇。

 紅い色が飛び散った、青灰色の髪。

(もういらいないんだろう?)

 再び、どこかで誰かの声。

 そんな、わけが――ない。

 それは、だって。自分の一番、大切な。誰よりも、何よりも、最愛の――。

(名前も思い出せないくせに?)

 名前、名前、名前。ああ、どうして名前が思い出せないんだろう。彼は、彼は――。

 焦る気持ちを表すように、不意に空気がざわりと蠢いた。こちらを見やる自分は、陰鬱に笑って、そして口を小さく動かす。

 

『――――――――……?』

 

 嘲弄する疑問文。それに冷静な頭は、冷えた怒りでいっぱいになる。

 相手に何かを言いかけるよりも先に、自分の手から。硬質な何かが滑り落ちて、音を、立てた。

 

 カラン――。

 

 …?

 

 音を立てたそれに視線を向けて、息を呑む。

 落ちていたのは、真っ赤な地を滴らせた銀のナイフ。目に入ったのは――、鮮血に染まる自分の手。

 

 ぴちゃん――。

 

 自分の手から滴った血がもたらした音。

 

 これは、いったい、誰の?

 

 次の瞬間、自分の口から悲鳴が零れた。

 

 ※※※※※※※※

 

 ばっと体を羽起こすと、ベッドが派手に軋んだ。

 心臓がどくどくと音を立てて鳴り響いている。思うようにならない呼吸を、押さえ込むように小さく小さく息を吸い込む。

 背中を伝う汗が、冷たい。

 きつく自分の手のひらを握りこんだ。

 まだ、夏には遠い春の陽気は奇妙な暖かさを寝室に降ろしている。

 気持ちが悪い。

 

「………グレグズン?」

 

 訝しげに名前を呼ぶ声。それが自分の名前だと気づくのにはしばらく掛かった。

 はっとして視線を転じれば、暗闇の中にうっすらと見慣れた輪郭が見えて。

 反射的に相手を自分の中に抱きこんだ。

 ぎぃと、再びベッドの軋む音。それでもぜんぜんかまわなかった。

 

「グレグズン、どうした?」

 

 先ほどよりも、少し覚醒した相手の呼びかけ。

 それに再び安堵する。だって、相手は自分の腕の中にいて。ぬくもりを示すままに、自分の名前を呼んでくれている。

 

「グレグズン?」

 

 再びの疑問の声に、掠れた声で名前を呼んだ。

 

「………レストレイド」

「どうした?」

「レストレイド」

「なんだ?」

「レストレイド」

「…グレグズン?」

 

 まるでそれしか言えなくなったように、名前を呼ぶ自分に相手はますます不審を募らせたようだが。

 こちらは相手の名前を呼べた事実に安心して。

 よかった、言えた。と、小さくため息を吐いた。

 

「…グレグズン?」

 

 再び怪訝な声で名前を呼ばれたのをきっかけに、ようやく腕の力を緩めて相手の顔を覗き込む。

 

「どうした、お前…?」

 

 眼鏡が無いから見づらいのか、青灰色の目を細めてレストレイドの手が額を撫でた。

 いやな汗がまだ張り付いていたらしく、それにますます相手が目を細める。

 そんな相手の手を捕まえて、ゆっくりと息を吐き出していつもの表情を浮かべる。

 

「んー…、ちょっと変な夢見ただけ」

 

 だから、もー寝よ。

 軽い調子で言ったこちらに、まだ納得いかないように目を細めたレストレイドが口を開く。

 

「……グレグズン」

「なに?」

 

 聞いた途端に、ぐいと引っ張られて逆に相手の腕の中に顔をうずめる形になった。

 

「へ……」

「寝るぞ」

 

 言って相手はぎゅうとこちらを抱きしめてくる。

 ……もしかして、俺が抱きしめられて寝るのって初めてじゃないか?

 思いながら、腕の中で顔をちらりとあげる。

 

「あのさ、レストレイド」

「…なんだ?」

「ありがとーね?」

 

 

 へらりと笑って言えば早く寝ろと、照れたような声音が振ってくる。

 心地よい相手の体温と、心音にひとつ息を吐いて目を閉じる。

 

 

 

 ―――Golden slumbers kiss your eyes,

                      Smiles awake you when you rise,

                                        Sleep, pretty wanton,

                 do not cry,And I will sing you a lullaby,

                                        Rock them, rock them, lullaby………

 

 

 

 小さく、レストレイドの声でマザーグースが聞こえた気がした。

 

 

 

END

なにやらこれをネタにいろいろ付箋ができそうでニヤニヤしてました(笑)
うううう戴いてから飾るのが遅れて申し訳ありません名無しさん・・・!ついでにまだお礼のお返事もしてな(殴 打)
携帯メールで戴いたもので・・・いの一番忙しい時期に、癒しになりました(*^^*)
名無しさんはここぞというときに作品を投下してきてくれるので本気で毎回癒されてます萌えさせられてます・・・!(><)
素敵作品ご投下ありがとうございましたーーーッ!!!!

ブラウザバックプリーズ!

08.05.21.from:通りすがりの名無し人さま