それはある風の静かな日のこと。
私は本業である開業医としての仕事に専念していた。
いつもホームズと一緒に事件で飛び回っているせいですっかり患者の数は減ってしまったが、
それが逆に私の心と身体にゆとりを持たせていた。
ホームズは海外へ出張していて居ない。
一人が寂しくないと言えば嘘だが、おかげで医者としても作家としても仕事はかどっているので退屈することもなく悪くない時間を過ごせているのも確かだ。
だけど・・・。
「やっぱり物足りないよなあ。」
患者のカルテをまとめ終え、小さくて簡素な診察室で思わずこぼれる独り言。
しばらく低い天井を見上げてぼんやりとしていたが次の患者の入室を告げる看護婦の声に衣服を整え、聴診器の具合を確かめる。
「どうぞ。」
ドアの開く音、人の入ってくる気配。
入って来たのは健康的な体格をした壮年の男性だった。
「今日はどうなさいました?」
「ワトソン博士でいらっしゃいますね?」
男が威圧的な声で話しかけてきた。はいとしか答えようがない。
「シャーロック・ホームズの代理の者です。」
男の口から親友の名が出てきたのには少々面食らった。
「一緒に来て頂きたい。ホームズさんがお呼びです。」
「ホームズが?」
「ホームズ氏はいま重大な事件に関わっておいでで手が離せず、それで私が。捜査の手助けに貴方に来て欲しいと。」
「すぐにですか?」
「ええ。」
困ったことになった。ホームズの所へ行きたいのは山々だが、看護婦の話を聞く限りでは手が足りない程ではないにせよ、
まだ無視できない数の患者が残っている。
いくらホームズが呼んでいるとはいえさすがに無視するワケにもいかない。
その旨を男に話すとあらかじめ予想していたのか、背後にいる白衣を着た女性を示した。「腕は確かです。」
「五分で支度します。」
「お急ぎください。事態は切迫しています。」
どうやら私は一生医者としてまともな生活を送れない運命にあるらしい。
せかされ三分で支度し、車でしばらくは走った後に到着したのはなんと港だった。
話によるとホームズは船の中で待っているらしくすぐに乗船するよう促された。
言われるがままに乗り込んだかと思うとすぐに船は出航してしまった。
「こちらです。」
男にホームズの部屋まで案内してもらう。
船尾部分の少し手前と言った所にある部屋をノックし、私が来たことを伝えると中からの返事も待たず男はそそくさと立ち去った。
どうやら他にも仕事があるらしい。
「入ってくれ。」
聞き慣れた声がドアごしに聞こえてくる。
扉を開けて部屋の中にはいると急に息苦しくなった。部屋中パイプから出る紫の煙で満たされている。
そして煙が最も濃く立ちこめている所に山の様な書類と悪戦苦闘している親友の姿。
「やあ、ワトソン君。」
背中越しに聞こえる声に疲れは見えなかった。もしかすると疲れる暇も無いほどなのかもしれない。
「ひどいな。そのうち病気になるぞ。」
思わずむせかえる。
「済まない、やることが有りすぎて迎えに行けなかった。遣いに出した男は粗相をしなかったかい?」
言いながら彼は部屋についてる窓を開け空気を入れ換え始める。
「とてもよくしてくれたよ。ところでホームズ、事情を説明してくれないか?この船は何処へ向かっているんだ?」
「実は、緊急で日本へ行くことになってね。」
「日本だって!?」
「ああ、前から君は行きたがっていただろう。」
「それはまあそうだけど。」
「今回は少々やっかいな依頼で君の力が必要なんだ。手を貸してくれるかい?」
「出来る限りの協力はするよ。」
「実は兄からの頼まれごとなんだ。」
「マイクロフトさんの?」
彼の兄マイクロフト・ホームズはシャーロック勝とも劣らない観察眼と推理力の持ち主で、
彼に『マイクロフト事態が政府のような者だ。』と言わせるほどの人物である。
「事情があって所々話せないが、日本で大きな闇取り引きが有ると解ってね。
今回はその取り引きの黒幕を見つけ、奴の企みを潰すのが仕事だ。」
「随分と物騒な話だな。」
「ああ、だから事の運び方には細心の注意が必要になる。」
「なるほど。で?私は何をすればいいんだ?」
「君には、その取り引きの詳しい日時を突き止めて欲しい。」
「どうやって。」
「潜入捜査だよ。安全で確実なね。」
「へえ、どんな手を使うんだ?」私はワクワクしながら彼の返答を待った。
「君にゲイシャになってもらいたい。」
一瞬、世界が止まった。あの時の私は相当間抜けな顔をしていたに違いない。
目の前にいる親友が不思議そうな目をしている。
「ワトソン?」
「何に化けるって?」
聞き間違いであることを祈ってもう一度尋ねた。
「ゲイシャだよ。日本通の君なら知っているだろう。」
「ゲイシャというとあの着物に厚化粧して酒を振る舞う・・・。」(嘘だろう?)
「そうだよ。」(本気だよ。)
「つまり・・・私に女装しろと?」(嘘だと言ってくれ。)
「ああ。ゲイシャなら酒の席にかこつけて情報が手に入る。運が良ければ証拠品もね。」(無理な相談だ。)
「どうして私が。」
「他の人間は信用できないからね。」(君の着物姿が見たいんだよ。)
「なら、君がやればいい!」(この前メイド服を着せてさんざん遊んだばかりだろう?)
「僕では背が高すぎるし、顔もゲイシャには不向きだ。
君なら背丈は丁度良いし女性的な顔つきをしている。まさに打ってつけだよ。」(だ・か・ら。)
「私をチビで童顔だと言いたいのか?」
「おかしいな、君のチャームポイントをあげたつもりだったんだが。」
「おだてても無駄だ。」そっぽを向いてやった。
「君は前に日本では男が女装して舞を舞うと言ったじゃないか。」
「あれは歌舞伎の中だけだ!!」
「しかし、日本ではその歌舞伎役者の卵が女装して店に出る『陰間(かげま)』というものもあるそうじゃないか。」
「ホームズ!どうして君がそんな事を知っているんだ。」
「資料に書いてあった。」
「とにかく。私は嫌だ。」
「ワトソン。」
私はあえて無視した。こういう時のホームズにはふくれっ面でだんまりするのが一番効果があるのだ。
「そんなに嫌かい?」
思った通り、彼は困った顔をしてこちらの顔色をうかがってきた。
ようし、後少しだ。ここで思いっきり突き放して一気に諦めさせよう。いざとなれば涙を見せればそれでかたが付く。
「当たり前だ!」
「どうして?」
「どうしてって。2ヶ月前、私にイプニング・ドレスを無理矢理着せてロンドン中の夜会へ連れ回したのを忘れたのか?」
「忘れるワケがないだろう!!あの時の君の美しさと言ったら・・・。海色のドレスに君の瞳と白い肌が綺麗に映えて・・・。」
「スタンフォードに危うく見つかる所だったんだぞ!!」
彼と視線が合った瞬間は本当に心臓が止まるかと思った。
照明は暗かったし、化粧で気づかれてはいないはずだが恐ろしくてここ数ヶ月連絡を取っていない。
「大丈夫、日本に君の知り合いはいない。だから安心して。」
初めて気づいたが、すでに彼の後ろには愛用の変装用化粧道具と和服が一式用意されている!!
「嫌だ!」
「協力してくれると言ったじゃないか。」
「私にだって、出来ることと出来ない事が有るんだ!!」
少しでも思いとどまらせようと、声を荒げたが逆にもう打つ手がない事を悟らせてしまったらしく、
ホームズはゆっくりとだが確実に私との距離を縮め始めた。
「大丈夫、痛くしないから。」
私の顔に触れる手は優しく、思わず気がゆるみそうになる。
「そう言う問題じゃない!?」
「じゃあどういう問題なんだい?」
気づけばもう彼は息がかかるほどの距離にいる。
今思い返してみると逃げようと思えばもっと早い段階で出来たにちがいない。
扉に鍵はかかってなかったし、私の方が遙かに扉に近い位置に立ってたのだから。
だがあの時はそんな考えが頭を掠めることすらなかった。
なぜなら狂気いや狂喜の色になみなみと満たされた彼の目がまるでメデューサのそれのように私の体の動きと思考を狂わせていたのだ。
「ほら、もうダダこねないで。」
彼の目に私の意識は吸い込まれる。前の時もこの目に見つめられて結局ドレスを着てしまった。
「辞めっ・・・。」
最後の抵抗を試みようとしたがその前に彼が私の自由を奪う。
もう何も出来なかった。ただ身を任せるだけ・・・。
END
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JBさんからとうとう正式な妄想文をいただいてしまいました〜vvv
ゲイシャ!!ワトがゲイシャ!!
最初はシリアスな展開なんだろーか?と思って読んできましたら・・・
来ましたね。先生が壊れる瞬間が。(爆笑)
すべて準備済みってのがまた。
きっと目を通していた書類の山はゲイシャに関する資料だ、ウン。
萌え妄想の源をありがとうございましたvvv
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