病院というのはどんなに新しくてもどこか影のあるところだ。

 

 

 

地方の病院。

自動扉よ開くの遅しと言わんばかりに夫がわずかに開いた扉の隙間に足を滑り込ませる。

そのまま猛然と、無言で、凄いスピードで院内の廊下を歩いていく。

わたしは待ってとも言えずに小走りにただついて行くだけだ。

 

夫の実家のとある病院。

地方都市の大きな病院も、夜は薄暗く静かだ。

都会の喧騒から、こんな夜に地方の病院へ来た理由は『危篤』。

 

夫の両親ではなく、妹が、だ。

つまりわたしにとっては『義妹』。

 

わたしはこの夜、わたしと夫とでは決して持ち得ないものを見る。

 

 

 

狭い病室/個室

クリーム色の部屋の中に、白いパイプベッドとサイドボード。

横たわる影の薄い体とその側に立つ白衣の医者、看護婦。

今の世、正確には看護士だが、

呼び名が変わったところで何の意味もないと思うのはわたしだけだろうか。

夫の両親もいる。

娘の危篤だと言うのにひどく落ち着いている。

むしろ入ってきた夫を、義父はニッと笑ってむかえた。

 

夫も、夫の両親もほんとうにいい人たちなのだけれど。

この独特の空気が解らない。

会話も無く、焦燥の色も無く。

血の近い娘が、妹が亡くなろうとしているときに。

このコミュニケーションは何だ?

 

「午前零時三十三分。───ご臨終です。」

 

医師の静かな声にすら、沈んだ思考はビクリと驚く。

顔を上げれば、ベッドの上の義妹は真っ白な顔で目を閉じている。

死人の顔色を土気色と呼ぶのはいったい何時なのだろう

どうでもいい考えの中、医師の口からはお決まりの短い言葉が紡がれる。

深々と頭を下げて退出していく医師たちには目もくれず、夫が義妹に近づいていく。

 

そうして義妹の手を握ったり、指を絡ませたり。

癖っ毛のある髪をかき上げ撫でたり。

 

夫が大広げな態度をとらなくても、義妹をひどく可愛がっていたのは

知っていたので別れを惜しんでいるか、悲しみに暮れているのだろうと思っていた。

わたしはつ、と首を傾げて夫の顔をそっと覗きこんだ。

夫が泣いていやしないかと。

夫は泣いていなかった。

 

夫は、微笑んでいた。

 

優しく、優しく夫は微笑んでいた。

いつもの、義妹と久しぶりに会った時に見せる。

あの顔だった。

 

 

「───何、食いたい?」

不意に夫が口を開いた。

一瞬わたしに言っているのかとも思ったが、すぐにそれは違うとわかった。

「なに食いたい?」

亡くなった義妹に言っているのだ。

それだけ夫は義妹のことを可愛がっていたのだなと思った。

だが、次の瞬間。

 

「チョコとプリン。」

 

ギョッとした。

「チョコとプリンとあんぱんが食べたい。」

今さっき死んだと言われた義妹が、か細い声で、口を利いたのだ。

わたしは頭から血の気が引いて行くのを感じた。

しかし、夫の両親は何でもなさそうに佇んでいる。

義父にいたっては死んだ義妹が口を利くや否やニッと笑みを浮かべた。

さっきのように。

 

「チョコとプリンとあんぱんと───あとは?」

夫も、驚く様子も無く義妹との会話を続けていく。

これが当然とでも言うように。

「あとは何かないのか」

義父も夫の後ろに近づいてきて、尋ねる。

「エクレア。」

義妹はぱちりと目を開けている。

わたしは何かの冗談かと思った。

なにか、大掛かりな何かの冗談かと。

でもそれは違うとわたしの中の何かが告げていた。

「それから?」

「うーん・・・スパゲッティと・・・・あとは・・・・いろいろ、いっぱい。」

食べたいものがありすぎて思いつかない。

そんな様子だった。

「ん、わかった。」

 

それが合図だったかのように、シュウーと扉の開く音がして看護婦が入ってきた。

末期の水と、体を清めるとのことだった。

解りました、と夫が立ち上がる。

 

義妹はすでに臨終と言われたとき同様に真っ白い顔でベッドに横たわっていた。

 

 

 

義妹の葬儀は淡々と、順調に行われた。

祭壇の上にはあのとき義妹が『食べたい』と言った物がずらりと並べられていた。

義妹の葬式を終わらせるとわたしたち夫婦はすぐに都会の喧騒へと戻った。

わたしは夫にあのときのことを尋ねていない。

何をどう尋ねていいか解らないというのもあるし。

義妹の火葬の日の夫の言葉が頭から離れないというのもある。

 

 

義妹の火葬の日

わたしと夫は火葬場の外に居た。

黒い軽ワゴンに寄りかかり、煙突から立ち上り消えてゆく煙を見ながら、夫は言った。

「僕がどれだけ君を愛しても。君がどれだけ僕を愛してくれようとも。」

煙突から立ち上る煙の色は灰色と言うには薄すぎる、くすんだ白。

 

「僕らがどれだけ愛し合おうとも、死んだあとも互いの呼びかけに口を利いてくれることは無いのだろうね。」

 

煙から視線をわたしに移した夫は

そう言って、ニッと笑った。

 

 

あの病室での出来事は

夢だったのではないかといまでも思う。

だけど

たったひとつだけ解ったことがある。

わたしが、わたしたちがどれだけ愛し合おうとも

わたしが死んだ時、わたしは夫の呼びかけに応えることはできないということ。

そして、夫も死んだ後ではわたしの呼びかけには応えてくれないということ。

 

 

 

あの揺るぎない、愛というにはあまりにも深く。

そして浅い絆に立ち入ることなど、出来やしないのだと。

 

 

 

END

* * *

兄弟とか娘息子なら血が繋がってますけど
夫婦って赤の他人ですからね。
絶対超えられない愛があると思うんだ。
ひとつくらい、哀しい愛が。

* * *

モドル