それは人を拒む風雨の夜。

 

 その合間を縫うように

 

 庭の廃屋に足を伸ばす影。

 

 

 雨が叩きつける

 

 何かを知らせるように。

 

 

 

 二つの茶水晶・XIII

 〜バーネット・ベシュー探偵社〜

 

 

 

 母と、母の愛する『テオドール』。

 ぼくは母さんの『テオドール』にはなれなかった。

 

 母に愛された記憶は無い。

 正確に言うと、ぼくは覚えていない。

 ぼくに分かるのは、母はぼくを『愛してくれていたらしい』ということだけだ。

 すべてが陽炎。対岸の蜃気楼。

 降り注ぐ母の愛もそれを享受する幼子の肖像も。

 遠い国の夢物語───どこかに消えてしまう。

 

 まだ、父が居た頃。

 それは母にとって───まだ母に抱かれていたぼくにとって、そして父にとって束の間の蜜月だった。

 ぼくは父の顔を写真でしか知らない。

 父が居た頃にぼくは生まれているのだから、小さなぼくも父に抱かれたはずだが。

 人間とは不便なもので、そんな貴重な瞬きのような記憶でさえ残してくれない。

 

 やがて厳格な性格を重んじる祖父がやって来て母が父の高貴な血にそぐわぬ相手だと知るや否や父を連れ帰ってしまった。

 母の悲しみたるや、相当なものだっただろう。いや、事実相当だった。

 ぼくが自意識を持ち始めた頃には

 母はもう完全に

 

「お ば さ ん 、こんにちは」(おかあさん、おかあさん)

「あらこんにちは、ま た 来 て く れ た の ね」(いるよ、いつもいるよ)

 

「さあ テ オ ド ー ル、あなたもご挨拶なさいな───」(かあさん、ぼくはここにいる。ぼくがテオドールなんだほんとうは)

 

 狂っていた。

 

 母は

 日に日に育っていくぼくが

 ゆるせなかったのだろう。

 

 ぼくが母に抱かれている頃までは父が居た。

 親子3人の、幸せな憧憬。

 ある日そこから父が居なくなる。

 時は早く、子はすくすくと育っていく。

 

 母はそれが堪らなかったのだろう。

 

 3人の蜜月が夢幻のように

 遠くなっていくのが。

 

 それゆえに母はぼくが育つことを拒んだ。

 いつまでも、いつまでもあの幸せの絶頂であったその象徴として、母の中でぼくはいつまでも赤子だった。

 赤子のぬいぐるみをぼくとして抱き、赤子のぬいぐるみをあやし、帰ることの無い父の帰りを待った。

 つらかったのは、母にとってぼくが他所の子だということだった。

 よく母はぼくに向かって嬉しそうに笑って言った。

「ねぇ見て、これがあたしのテオドールよ。可愛いでしょう」

 そう言って赤子のぬいぐるみを差し出してくる。

「わあ、いまいくつなの?」

 あのときのぼくはきちんと笑えていただろうか。

 

 共に過ごした数年間、母の時間が進むことはなかった。

 何日過ごそうが、何年過ごそうが母の中ではたった『一日』しか過ごさなかったことになっていた。

 だから母の中では父はいつでも『明日』帰ってくることになっていた。

 最期の日まで、母は『明日』が来ることを信じていた。

 

 精神的に病んだ母の体は健康とは言えず、最終的には病の床に伏せった。

 結局最後の瞬間まで母は醒めない夢を見たままこの世を去った。

 ぼくが10歳になった頃だった。

 怖くてとうとう最後まで呼べなかった。

 おかあさん、と。

 今まで築き上げてきた母との滑稽にしろ望ましいと信じてきた関係が

 脆くも崩れ去ってしまいそうで。

 

 おかあさん。

 おかあさん。

 

 何度も頭の中で反芻した言葉。

 口にすることを夢見た。でも口にした途端あなたに冷やかな目で見られるのではないかと怖れた。

 

 ああでももしあのとき

 母と呼んでいたのなら

 あなたは

 ぼくを呼んでくれただろうか

 

 テオドールと───

 

 ふと誰かが傍に居る気配を感じた。

 

 だれ?

 おかあさん?

 

 脳裏に赤子のぬいぐるみを抱き幸せそうに笑う母が浮かんで少し悲しくなった。

 

 おかあさん

 それはぼくじゃない

 

 おかあさん

 おかあさん

 

 ぼくは──テオドールはここにいますよ

 

 

 ギイィと音を立てて扉が開いた。

 冷たく湿っぽい小屋の中に風雨が入り込んでくる。

 入ってきた男の長い金の髪を、水滴がつたう。

 

「・・・・・べシュ」

 そこに横たわっていたのは、変わり果てた姿のべシューだった。

 息があるかを確認しないではいられなかったが、あまりに脆い様子の体に力の入れ具合が分からない。

 口元に手をかざさすと、微弱ながら空気の流れを感じた。

 ひとまず息があることに少し肩の力を抜く。そのとき、べシューの茶水晶の瞳が虚ろにも垣間見ていることに気がついた。

「・・・べシュー?」

 できるだけ小さく名前を呼んだ。

「・・・おかあさん・・・・」

「・・・・・」

「・・・おかあさん・・・・」

 焦点は合っていない。べシューは僕の向こう側を見ていた。

「それは・・・ぼくじゃないよ・・・・」

「べシュー・・・・・・・」

「ぼくじゃない・・・ぼくじゃ・・・ぼくは・・・・」

 

 ここに。

 

「テオドール」

 わかってる。そう言って少し持ち上がった手をそっと握った。

 虚ろな目元が少し笑ったように見えて。茶水晶は再び瞼の奥に閉じられた。

 不意に風雨に紛れて泣き叫びたい衝動に駆られ、歯を食い縛る。

 誰かが背後から中を覗き込む気配がした。

 

「パトロン、お早く・・・屋敷の中でも、事が起こりつつあります」

「わかっている」

 べシューを抱き上げると男は振り返った。

 水滴に濡れた金糸が闇に輝いた。

 

「手はずどおりにと、ドードビル兄弟に伝えろ」

 

 怪紳士アルセーヌ・ルパンが、そこにいた。

 

 

 

 NEXT

 ラスト、あえて『怪紳士』にしてみた。今回盗みメインじゃないしね。こっちの方がより怪しい感じがしていいかなと。
 たしかブログSSにこのシーンの原本となるものがありましたか。Sさまの夢ネタから出発したものがようやくここまで辿り着いたよ・・・!

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 07.07.13.TOWEL・M