満ち満ちて甘い毒

 

 

 ゆるゆると意識が浮上してくるにつれて、目を開けた。

 ぼうっとした視界は何かに遮られているかのように暗く、しかしどこかに仄かな明るさを感じた。

 目を擦ろうと無意識に持っていった手が自分の顔ではないものに触れたことで、

実際に何かが目元を覆っているのだということに気がついた。

 自分の視界を遮っているものに手を触れる。

「お目覚めですか?」

 目覚めたばかりのこちらを気遣うかのような声音が耳にとても心地よく響いた。

 ゆっくりと視界が明るくなる──だがそこに現れたのは、夜より暗く黒より黒い闇を纏った男だった。

「ああ・・・・・」

 おまえか。

 艶のある黒髪といっそ青白いまでの肌の間から、黄金に輝く月のような眼が覗く。

「お加減はいかがですか。吐き気などありませんか」

 先ほどまで目を覆っていた手が額に移動している。その冷たい感触に目を細める。

 気遣わしげに触れてくる指に、それならば一服盛ることなどしなければいいのにと溜息を吐いた。

「吐き気はない、が・・・」

 頭が重い。呟いて、仰向けだった身体を男の方に向けて横にする。

 鈍痛と言っていいのか分からない頭の重さを誤魔化すように男の腹部へと顔を埋めた。

 くすぐったいですよ、と言いながら髪の上から触れてくる掌は上機嫌だった。

「水でも飲まれますか」

「ん・・・いや、いい」

 申し出を断り、薄めで周囲の様子を確認する。

 予想通り、そこは男の書斎だった。

 其処彼処が黄昏時の街のような、間接照明で彩られた書斎。

 部屋の中に点在する暗がりは何か潜んでいるのではないかという錯覚を起こす。

 それと同時に人を眠りの淵へと誘うにはちょうどいい、甘いほの暗さ。

 この部屋自体が甘い毒のようだと思った。

 ぐずぐずとまどろんでいる間に毒されてしまいそうなほどに。

 

 さっきから男の手が優しく髪を梳いている。

 それを何も言わずに感受するのは、これが単純にこの男の気まぐれに因る招待だからだ。

 男はここのところ何も事を起こしていないし、自分に勝負をしかけているというわけでもない。

 そんなとき、男は自分を自身の書斎へと招くのだ。

 やり方は様々だが、一服盛られて連れて来られるのが多かった。

 事件中捕らわれるときと違って、そういうときは必ず彼の書斎に通された。

 幾つもの棲家を持つ彼の書斎はその都度違っていたが、基本的な雰囲気は一緒だった。

 甘い闇が支配する、間接照明で彩られた書斎。

 そこには拘束具も揶揄も無いというのに、囚われてしまうと錯覚するのは何故なのだろうか。

 

 世間の目も、互いの立場も、何も気に病むことは無い。

 怪盗である男と探偵である男が二人、ただ在るだけの、せかい。

 

「・・・過不足が無いからか」

「? なんです?」

 ふと行き着いた答えを口にすると、上から声が降ってくる。

「お前といるこの空間は過不足が無い。お前といると過不足が無い」

 満ち足りてしまう、と呟いた。

 嗚呼、なんてことだ。なんて恐ろしい。

「私も、貴方といると過不足が無い。満ち足りてしまう」

 なんて、素晴らしい。男はうっとりとそう漏らす。

 あまつさえ、このまま満ち足りてしまいましょうか、などと言い出すのだから始末に終えない。

 だが、過不足が無いということは。

 満ち足りるということは。

「・・・・危険だ」

「満ち足りることがですか」

 何故です、満ち足りることは悪いことではありませんよ。

 それは確かにそうだ。だが男と自分にとっては危険なことだ。

「僕がお前で満たされるということが、だ」

 一瞬きょとんとした男の顔が、美しい微笑を描いた。

「私は貴方で、貴方は私で満たされることが分かっている。幸いにも、互いを得ることで私たちの充足は完成する。

 ならば満ち足りてしまえばいいではないですか。そこまで分かっていて、何故満ち足りてしまわないのです」

 耳に吹き込まれるように説かれる言葉に、警鐘が鳴る。

 満ち足りることが出来ると分かっていながら満ち足りてしまわないのは愚かだと信じてしまいそうになる。

 そもそも、人は渇望する生き物だ。

 本来、満ち足りることなど在り得ないのだ。

 別にそれで拍子抜けした彼に愛想を尽かされるのが怖いのではない。

 危惧している事態は、そんな可愛らしいことではない。問題は在り得ないはずのことの方だった。

 そう、在り得ない。

 世を騒がせることを好しとする怪盗と、奇怪な難事件を欲する探偵。

 そんな欲も業も深い二人が、互いの存在だけで満たされてしまうなど。

 

 だが、だがもしも。

 もしも本当に、満たされてしまったら。

 その可能性が否定できないのが何よりも危険だった。

 

 甘い毒の液を詰めた小瓶に、二人一緒に浸けられるようなものだ。

 溶液の中でただ二人ぷかぷかと浮かぶだけ。

 そこには進展も退路も無い。

 満たされた人間は、生きもせず死にもせずに終わるのだ。

 

 それがどれだけ恐ろしいことか、男は分かっているのだろうか。

 

 満ち足りる危うさに怖気を覚えて身体を起こす。

 だが思いのほかに揺らいだ視界に、身体は再び傾いた。

「無理はいけませんよ。・・・少し寝室の方で休まれますか」

 顔色が良くありませんと言う相手に誰のせいだと返せば苦笑いで答えた。

 「いや、帰る」と言おうとしていた口は何故か「そうさせてもらう」と勝手に紡いでいた。

 カッコンカッコンと鳴り続ける振り子時計は、照明から外れていてぼんやりとしか見えなかった。

 見えたところでそれがいつの何時なのか知る術も無いのだ。

 窓が無い男の書斎は、いくつ陽が昇り沈んだのかも分からない。

 寝室へと向かうべく、男に抱えられて書斎を後にした。

 

 

 男は僕を書斎へと招く。

 決して拘束することなく。揶揄うことなく。

 男の紡ぐ甘い毒に、こちらが望んで囚われにくるのを今か今かと待ちわびながら。

 

 それはいつでも帰れるという甘い罠。

 

 

 

END

 文章を書くのはいつ以来だろう・・・!
 なので読んでて変なところあるかもしれないですが軽くスルーしてやってください(爆)
 『過不足が無い』『満ち足りる』云々の遣り取りは江国香織のウェハースの椅子を参照に。
 満たされることで20に囚われて動けなくなる明智が見たい。見たい。(二度言った)

 

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10.05.27.TOWEL・M